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2011年1月19日 (水)

ブルース・チャトウィン モレスキンを愛した作家

マティス、ピカソ、ゴッホ、ヘミングウェイら芸術家がモールスキンを愛用していたのは有名な話です。そんな一人の中に、ブルース・チャトウィン(1940~1989年)という紀行作家の名前がありました。

「このノートをなくすことはパスポートをなくすことと同じくらい災難だ」という彼の言葉は、モールスキンの帯にも印刷されています。目下、このノートにすべてを書き込んでいるボクは、いたく共感してしまいます。チャトウィンはどんな風にモレスキンに書き込んでいたのでしょうか?

ブルース・チャトウィン本
ロンドンで購入したペーパーブック

http://www.tekhne.jp/product.php?id=1によれば、モレスキンは1986年に生産中止に追い込まれました。(現在の製品は新たに別の会社が復刻したもの)その時、チャトウィンはパリ市内の某書店に残っていた最後の在庫をありったけ買い込んだそうです。


デビュー作となった南米パタゴニアの旅行記。チャトウィンはそのパタゴニアを南下するしていくのですが、そのきっかけとなったことが大変ユニークです。それは彼の幼少時代にさかのぼります。

祖母の家には従兄弟で船長だった人物がパタゴニアから持ち帰ったという動物の革が飾られていました。それは恐竜プロントサウルスの皮の一部と教えられた彼は強い興味を抱きます。

祖母が亡くなったときに、譲り受けることを密かに狙っていたのですが、ゴミといっしょにあっさりと捨てられてしまいます。結局、それは太古の恐竜のものであるわけはなく、ナマケモノの一種で、現在は絶滅種のミロドンだと分かります。

彼は、その皮が見つかった最南端の町を目指していきます。

彼は強風が吹く”風の国”で、さまざまな人たちと出会います。インディオ、入植してきた白人。そこに歴史的なエピソードと、彼の考察が挿入されていきます。

映画「明日に向かって撃て!」のブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド、進化論のダーウィン、冒険家マゼラン・・・といった世界的に有名なものから、ボクにはなじみのないものまで。

話は次々に飛んでいきます。ひとつひとつのエピソードはつながっているのか、どうかは微妙。彼は思いつきと飛躍の名人です。

それに戸惑いながらも、読み進めていくと、混沌としたパタゴニアの大地が少しだけ見えてくる気がしました。読み終えると、もう一回読み直してみたくなる本です。

「ウィダの提督」(絶版)/映画「コブラ・ヴェルデ」(こちらも絶版の恐れあり)

この原作を映画化したのが「コブラ・ヴェルデ」。チャトウィンはガーナロケを見学。その時のことを「ヴェルナー・ヘルツォーク・イン・ガーナ」とのエッセーで綴っている。このエッセーは死後、編纂された短編集「どうして僕はこんなところに」に収録された。

ウッツ男爵―ある蒐集家の物語邦訳絶版。

マイセン人形に魅せられた男、ウッツ男爵の物語。ウッツ男爵が亡くなり、そのコレクションが一夜にして、消えた。生前、男爵と会った「僕」はそのナゾを解き明かそうとします。

88年発表の作品で、89年、48歳の若さで亡くなった(死因はエイズらしい)チャトウィンにとっては最後の小説になるそうです。

ミステリーではなく、その人間の実像に迫るという感じ。陶器やプラハという町に詳しくないボクはやや苦労して読みましたが、全体としては軽妙な話。美術商サザビーズの勤務歴や考古学を学んだ経験が活かされているように思えました。万人にお勧めできる類のものではありませんが、不思議な雰囲気を持っています。

この原作は「マイセン幻影」という映画にもなっています。こちらもビデオのみで絶版。渋谷のツタヤでレンタル可能です。

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2010年12月15日 (水)

appleTV~自宅にいながらにして映画レンタル

ロス滞在中に注文したAppleTVが先日、届いた。

旧型はHDD内蔵とあって、高かったが、新型は8800円とお手頃。

しかし、AppleTVとはなんぞ?を説明するのは案外、難しい。iTunesをTVに繋げるもの。それでも、イメージは湧きにくいだろう。

iTunesがテレビになるというのは、音楽や写真、動画が見られるということ。YouTubeや写真投稿サイト、フリッカー、米映画の予告編も閲覧可能。

最大の特徴は映画のネットレンタル。家にいながらにして、DVD化された映画が見られる。気になる映画レンタルの価格は300円から。洋画の新作は少々割高な印象だ。

AppleTV上でも、購入できるようだが、今回はiTunesでやってみた。作品は「戦争と人間」(HD版、300円)。iTunesでダウンロード始めること約30分。AppleTVを開いてみると、きちんと入っている。

appleTVで読み込むまでには多少、時間がかかる。しかし、読み始めると、止まったりすることはない。

「HD」と謳っているが、実際の画質はDVDより落ちる程度。ブルーレイには遠く及ばないが、自室の20インチ液晶テレビで見る限り、こんなもんかな、と思う。それなりに満足できるレベルにはあるかな。

AppleTVの普及の鍵は映画のラインナップ数と価格だ。

2010年12月初旬現在、1000本程度あるようだが、まだ映画ファンを満足させる数にはなっていない。ビデオレンタル店には価格、ラインナップともにインセンティブがある。今や、新作でも100円レンタルの時代だ。ただ、上記の条件を満たした時、appleTVは急速に普及するだろう。

アマゾンと楽天を見たが、appleTVはほとんど出ていない(12月15日現在)。しかし、アップルストアを見ると、「24時間以内に出荷」とあり、アップル側が出荷も完全コントロールしているようだ。

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2010年12月10日 (金)

iPhoneの海外利用 (海外パケットし放題&スカイプ)

12月6日~9日、二泊四日という強行スケジュールでロサンゼルスに行ってきた。海外は2007年7月28日 (土)のニューヨーク以来なので、約3年ぶり。iPhone3GSを購入してからは初めての海外だ。そこで、海外での使用感や利用方法などをメモ程度に書いておこう。

たった3年、されど3年である。海外での電話利用、パケット利用は革命的に変化を遂げていた。

●海外パケットし放題

以前は海外用ケータイを借りて出かけたものだが、今回は短期間ということもあり、自前のアイフォンを持っていった。というのも、アイフォンには「海外パケットし放題」というサービスがあり、なかなか手頃で、便利だと聞いていたからだ。

今回はiPhone、iPadを持参。飛行機ではどちらも「機内モード」にセット。そうでないと、着陸後、勝手にキャリアを探しに行くことがあるからだ。

空港に到着後、iPhoneの機内モードを解除すると、iPhoneは自動的にキャリアを探しに行く。「海外パケットし放題」の対象キャリアは米大手の「AT &T」。しばらくすると、接続される。

Photo

注意しなければいけないのは、パケットの使用開始の基準は日本時間になっていること。つまり、「0:00」からでも「23:59」からの使用でも1日分となる。ロサンゼルス到着は日本時間7日午前だったので、日本時間の7、8日の間で使うことにする。

1日の使用料は「1480円」。動画などを使用の場合は2980円だという。今回の旅の場合、2日間で約3000円ということだ。ちなみに、ホテルでのWiFi使用料は$12.95だった。用途にもよるだろうが、大容量のやりとりをしないのなら、iPhoneの「海外パケットし放題」で十分な気がする。

怖いのはソフトバンクが指定するキャリア以外にもつながることだ。

<設定>→<キャリア>→<事業者>を選択となっているが、ハリウッドの山の方へ行ってしまうと、「AT&T」から「MobileT」に接続されてしまう。この場合、ソフトバンクから以下のような警告メールが届く。


米国在留者によると、AT&Tは日本で言えば、ドコモのような存在だそうで、現在、アップルと独占契約中。しかし、エリアカバーはさほど広くないらしく、ハリウッドの山を越えた米大手スタジオ辺りだと、MobileTのアンテナを拾ってしまうらしい。MobileTとの接続中にメールを拾ったりしてしまうと、課金されてしまうので、メールの自動受信などは国外に行く前に切っておいた方がよい。。ソフトバンクはキャリアを切り替えろというのだけど、「自動選択」になっていて、手動で切り替えられない。僕は怖くなって、AT&T圏外に達したら、機内モードにしてしまった。

●音声電話はスカイプで

「海外パケットし放題」は音声通話は対象外。この点も注意が必要だ。

音声通話は主にスカイプを使った。スカイプはスカイプ同士は無料だが、スカイプからケータイ、固定電話にかけるのは有料となる。僕もスカイプを使っているが、あらかじめクレジットしておいた分があったので問題なかったが、こちらも事前にクレジットを入れておくとよい。世界中の固定電話や携帯電話への通話発信の開始価格:2.66¥/分<3.06¥ (VAT込み)>となっている。

Skypeクレジットの有効期間は、最後にクレジットを使って製品や機能を利用した日から180日間。こちらも切れないように注意しておきたい。切れそうになったら、ちょっとだけ使えばいいのである。帰国して残高を見たら、4.30円だった。

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2010年11月18日 (木)

DVD「空から日本を見てみよう10 総武線・御茶ノ水~千葉」に検見川送信所

検見川送信所が取り上げられたテレビ東京系人気バラエティー「空から日本を見てみよう」(2010年2月4日放送分)がついにDVDになりました。僕が撮影した送信所内部の映像も番組中で登場します。


ファン急増中!日本をはるか上空から映し出し、ぷかぷか雲にのった気分で日本中を見てまわれる、新感覚の街発掘バラエティーがDVD化。雲のキャラクター「くもじい」と「くもみ」と一緒に毎回いろんな街を空から探索。

<収録内容>
【総武線・御茶ノ水~千葉】(2010年2月4日放送)御茶ノ水駅を出発、電気街・秋葉原や問屋街・浅草橋を経て、両国駅では謎のホーム「3番線」の正体を探る!錦糸町の駄菓子工場、亀戸の都電城東線跡などに立ち寄りながら江戸川を渡り千葉県へ。 船橋では巨大な円形に区画された土地を発見、その歴史に迫る。さらにはロボットの顔のような建物や「N」型のビル、検見川の送信所跡などを巡りながら、千葉駅を目指す。


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2010年10月22日 (金)

「検見川送信所 1923-1999」(仮題)目次の一部

「検見川送信所」の物語は目次、参考文献を除き、原稿用紙にして537枚となった。

参考文献も以前より増えたし、「はじめに」も、その後手を加えたけど、とりあえず、そのままで。

以下は目次の一部。

現在、6章立てになっているんだけど、その第1章分はこんな感じ。

はじめに~「さまよえる軍服の幽霊」という都市伝説

第一章 関東大震災篇(一九二三~二六年)
~首都崩壊が検見川送信所誕生のきっかけだった~ 

・無線の父、中上豊吉
・有線ケーブルから無線へ 海軍船橋送信所の誕生
・欧米に負けない大電力無線局を
・その時、関東大震災が起こった
・戒厳令の夜の混乱と謀略
・そして、逓信省は全壊した
・船橋送信所所長は言った「朝鮮人を殺していい」
・大電力送信所を検見川に
・「モダニズム建築の父」、吉田鉄郎
・コールサイン「J1AA」の意味
・東京放送局誕生秘話
・二七歳の所長

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2010年10月10日 (日)

「検見川送信所J1AA 1923-1999 何を伝え、なぜ廃墟になったのか」参考文献

ブログがサボリ気味になっているので、健忘録を兼ねて。

今月に入ってから、助成金をもらった「検見川送信所」の本を執筆に集中している。題名はまだ迷っているが、仮に「検見川送信所J1AA 1923-1999 何を伝え、なぜ廃墟になったのか」としておこう。

目下、目次や主な参考文献を含め、文字数換算は400字詰めの原稿用紙470枚相当となった。単純な文字数なので、もう少しあるかもしれない。

途中ながら、参考文献をちょっと整理したので、以下記しておく。

同一傾向の書籍で、「これは参考になるよ」というのがあったら、教えてください。

【主な参考文献】

・「検見川無線の思い出」菊谷秀雄(自主出版)一九九〇年
・「中上さんと無線」編集・故中上豊吉氏記念事業委員会(自主出版)一九六二年三月
・「検見川無線三十年史」一九五三年
・「検見川無線史」編・検見川無線史編集委員会 一九七九年
・「電話100小史別冊 電気通信 発展外史」一九九三年

・「千葉県検見川町鳥瞰図」松井天山(聚海書林)
・「けみがわ」検見川郷土史編集委員会編 一九九五年
・「千葉空襲写真誌」千葉市市民局市民部市民総務課 二〇〇七年
・「千葉市空襲の記録」千葉市の空襲を記録する会 一九八〇年
・「千葉いまむかし No4」千葉市史編纂委員会 一九九一年
・「総武鉄道物語」塚本庸 一九八八年

・「吉田鉄郎建築作品集」同作品集刊行会(東海大学出版会)一九六八年
・「建築家吉田鉄郎とその周辺」向井覚(相模選書)一九八一年
・「建築家・岩元禄」向井覚(相模書房)一九七七年
・日本建築学会大会学術講演梗概集「『逓信印』から見る『吉田班』の構成について~逓信建築と吉田鉄郎」山崎徹、川向正人、高橋正明、森省吾(一九九六年)
・日本建築学会大会学術講演梗概集「『逓信印』から見る『吉田班』の構成について~逓信建築と吉田鉄郎(2)」山崎徹、川向正人、高橋正明(一九九七年)
・富山テレビ製作「平凡なるもの~建築家 吉田鉄郎物語」(二〇〇八年)
・イナックスレポート「吉田鉄郎」南一誠 二〇〇九年
・「吉田鉄郎設計 検見川無線送信所」菊地潤(NO114美術運動史 研究会ニュース)
・「都市の記憶を失う前に」後藤治(白揚社新書)二〇〇八年
・「近代化遺産を歩く」増田彰久(中公新書)二〇〇一年
・「産業遺産を歩こう―初心者のための産業考古学入門」平井東幸ほか (東洋経済新報社)二〇〇九年
・「建築探偵神出鬼没」藤森照信、増田彰久(朝日文庫)一九九七年
・「自伝 アントニン・レーモンド」アントニン・レーモンド、訳・三沢浩(鹿島出版会)二〇〇七年

・「日本放送史」日本放送協会編 一九五一年
・「日本放送史(上)」日本放送協会編 一九六五年
・「ラジオの時代」竹山昭子(世界思想社)二〇〇二年

・「浜口雄幸 日記・随感録」浜口雄幸(みすず書房)一九九一年
・「男子の本懐」城山三郎(新潮文庫)一九八三年

・「飛行船の時代」関根伸一郎(丸善ライブラリー) 一九九三年
・「ツェッペリン飛行船」柘植久慶(中公文庫)二〇〇〇年
・「日本飛行船物語」秋本実(光人社NF文庫)二〇〇七年

・「新聞人北野吉内」一九五三年
・「朝日新聞社史 大正昭和戦前編」朝日新聞百年史編修委員会(朝日新聞社)一九九一年
・「新聞と『昭和』」朝日新聞「検証・昭和報道取材班」(朝日新聞社)二〇一〇年

・「ビゴーが見た日本人」清水勲(講談社学術文庫)二〇〇一年
・「三千里」河東碧梧桐(講談社学術文庫)一九八九年

・「昭和経済史」中村隆英(岩波書店)二〇〇七年
・「昭和金融恐慌史」高橋亀吉、森垣淑(講談社学術文庫)一九九三年
・「昭和恐慌―日本ファシズム前夜」長幸男(岩波現代文庫)二〇〇一年
・「世界大恐慌―1929年に何がおこったか」秋元英一(講談社学術文庫)二〇〇九年
・「大恐慌のアメリカ」林敏彦(岩波新書)一九八八年

・「昭和史入門」保阪正康(文春新書)二〇〇七年
・「東京大空襲―B29から見た三月十日の真実」E.バートレットカー 、訳・大谷 勲 (光人社NF文庫)二〇〇一年
・「張学良の昭和史最後の証言」臼井 勝美、NHK取材班 (角川文庫)一九九五年

・「私の行き方考え方」松下幸之助(PHP文庫)一九八六年
・「小説 後藤新平―行革と都市政策の先駆者」郷仙太郎(学陽書房)一九九九年
・「後藤新平 日本の羅針盤となった男」山岡淳一郎(草思社)二〇〇七年
・「日本の放送開始と後藤新平」(松本安生、月刊誌『都市問題』同誌第98巻9号)

・「メディア史研究 特集=放送80周年特集」
・「変革者 小泉家の3人の男たち」梅田功(角川書店)二〇〇一年

・「坂の上の雲」司馬遼太郎(文春文庫)一九九一年
・「竜馬がゆく」司馬遼太郎(文春文庫)一九九八年
・「軍艦奉行木村摂津守」土居良三(中公新書)一九九四年

・「横浜震災誌」
・「関東大震災」吉村昭(文春文庫)二〇〇四年
・「関東大震災 『朝鮮人虐殺』の真実」工藤美代子(産経新聞社)二〇〇九年
・「いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人」千葉県における追悼・調査実行委員会編(青木書店)一九八三年

・「”働きつづけたい、健康でありたい”このあたりまえのことを仲間の団結で勝ちとろう-全電通千葉県支部の歴史と役選・七十五日間の斗い」
・「人として生きるために闘い続けよう 宮永さんの意志を継ぐ 宮永弘さん追悼集会」
・「千葉県近代建造物実態調査報告書」(一九九三年三月)
・「千葉市議会録」(一九九一年~)

・東京朝日新聞(一九二二年七月二六日)
・台湾日日新報(一九二二年八月九日)
・神戸新聞(一九二二年八月二〇日)
・東京朝日新聞(一九二二年九月九日)
・時事新報(一九二二年十月二三日)
・東京朝日新聞(一九二二年十一月八日)
・大阪時事新報(一九二二年十一月二四日)
・大阪毎日新聞(一九二三年二月二〇日)
・時事新報(一九二三年六月三日)
・東京朝日新聞(一九二三年六月十九日)
・大阪朝日新聞(一九二三年六月二六日)
・内外商業新報(一九二三年十一月二日)
・神戸又新報(一九二四年一月四日)
・大阪朝日新聞(一九二七年六月二三日)
・大阪毎日新聞(一九二九年七月二六日~八月二日)ドイツより日本へ初の旅、空中列車
・大阪朝日新聞 (一九二九年八月二五日)世界的驚異の『耳』
・大阪朝日新聞 (一九二九年八月二〇日)太平洋岸を南に刻々帝都に近づく
・大阪時事新報(一九二九年八月二一日)ツエ伯号飛来の真意
・内外商業新報(一九三六年四月四日)
・内外商業新報(一九三六年八月二一日)
・大阪朝日新聞(一九二七年四月二七日)
・大阪朝日新聞(一九三〇年六月二四日)
・大阪朝日新聞(一九三〇年九月十五日)
・大阪毎日新聞(一九三〇年十月二九日)
・東京朝日新聞(一九三〇年十月二九日)
・台湾日日新報(一九三六年十二月二日)
・時事新報(一九三六年九月五日)
・千葉日報(一九八四年五月一日)


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2010年10月 3日 (日)

ノンフィクション小説「検見川送信所」はじめに

三年前から、検見川送信所をめぐるノンフィクション小説を書いています。目下、400字詰めの原稿用紙で400枚を越えているのだけど、恥ずかしながら、いまだ完成のメドが立っていない。書いては書き足し、書いては書き直しというわけです。

あまりに完成しないので、途中経過として、以下、「はじめに」を掲載します。少し内容と意図が分かってもらえるかも。

はじめに~さまよえる軍服の幽霊の正体は

千葉市花見川区に検見川無線送信所という建物がある。

送信者 検見川送信所(Kemigawa Radio Station)

この物語は、その送信所との出会いがきっかけで生まれた。
 二〇〇七年七月。私はロードバイクを買ったばかりで、自宅周辺をサイクリングすることを楽しんでいた。早朝や週末、デジカメをバッグに詰め込んで、千葉市内を走った。

千葉市に住んで三〇年以上になるが、知らない場所がいっぱいあった。
千葉市は第二次大戦時に二度の大規模空襲を受け、歴史的名所もほとんどない。そう思っていた。
そんな折、インターネットのあるホームページで検見川送信所の存在を知った。
なんでも、日本初の国際放送を行なった施設ということだったが、一九七九年に閉局され、以降は廃墟状態となっているという。跡地は中学校予定地ということもあり、近く取り壊される予定という話だった。
これはいかなければ、なるまい。

しかし、送信所近くまで行って、住宅地で道に迷ってしまった。
たまたま道に出ていた老女に場所を聞くと、「送信所はもうありませんよ」と言った。
そうか、間に合わなかったか。

以前にも、こういうことがあった。
稲毛区には江戸後期の豪農屋敷の面影を伝える立派な長屋門があった。この豪農屋敷は通りに面した門だけではなく、母屋、竈屋も残っており、千葉市の散歩道を紹介する小冊子にも紹介されている。しかし、ある時、通りかかると、すっかり門がなくなっていた。建物は突然、跡形もなく、なくなってしまう。
この長屋門は個人所有の物件である。いろいろな事情があったのかもしれない。しかし、数少ない歴史的な建造物が姿を消してしまうのは、なんともいえない思いだった。

さて、検見川送信所である。
老女は「検見川送信所はもうない」といったが、せめて跡地を訪ねてみようと思った。閉局後には職員OBが寄付を募り、記念碑を建てたという話もある。
再び、通りを歩いている初老の男性に訊ねると、通りの反対側に廃墟となった建物が残っている、という。
さっきの老女の言葉はなんだったのだろうか?
私の聞き方が悪かったのだろうか。検見川送信所は操業を終えたという意味だったのか、それとも、検見川送信所はないものに等しいものだったのか。それは今となっては分からない。
ともかく、送信所は造成中の新興住宅地の真ん中、夏草が生い茂る空き地に建っていた。その正面には同じく朽ち果てた記念碑が建っているだけだ。

白亜の局舎と言われた建物は経年劣化で、薄汚れ、壁面の一部は剥がれ落ちていた。しかし、その姿たるや、堂々たるものだ。
一体、なんだ、これは。
これが初対面の印象であった。
岡本太郎は「『一体、なんだこれは』と思う物が芸術なのだ」と言った。確かに大阪万博(一九七〇年)のシンボルタワーである岡本の代表作「太陽の塔」はまさにそうした存在である。万博公園の入り口近くの広場に、万博終了後、四〇年を経過した今も威風堂々建っている。万博も終わり、岡本も死んだ。しかし、「太陽の塔」はそこに立ち続け、地上六五メートルから世の中を睥睨している。

送信者 太陽の塔(岡本太郎)

送信所の局舎にも同質の驚きがある。建物の佇まいに、ただただ圧倒された。
夏草が人間の背の高さまで生い茂る空き地はまるで、「荒野」のようだ。その土地は時代の一切から取り残されたようで、その真ん中で建物が寂しく、しかし、しっかりと地面にそびえている。
 送信所は一九七九年、その役目を終えて、閉局した。この三〇年間は誰の手を一切借りず、自身の力で建っていた。

 私はその後、図書館やインターネットで検見川送信所について調べてみた。
それは誇るべき文化遺産だった。設計は東京中央郵便局、大阪中央郵便局を手がけたモダニズム建築の先駆者、吉田鉄郎。一九三〇年(昭和五年)には日本初の国際放送を行った。

しかし、実際に有名なのは不名誉な話の方だ。
インターネットでは、有名な廃墟スポットとして載っている。検見川在住の市民からは「幽霊屋敷」という言葉も出てくる。また、小中学生のころ、夏休みに忍び込んで、肝試しをした、というもある。軍服を着た幽霊が送信所の廊下を歩くという都市伝説も流布されている。
圧倒的な存在感ゆえに、幽霊話が持ち上がるのは分からないでもない。幽霊を見た人は実際にいるのだろうか?

確かに、ネットで検索すると、「送信所は軍服に身を包んだ、さまよえる幽霊を見たと言う証言が後を絶たない場所」とある。
体験談として、こんな話も載っている。要約してみる。

怪談話をしながら、蝋燭を消すという肝試しをしていた時のこと。やがて、友人二人と実際に送信所に出かけてみようと盛り上がったのだという。普段は車の運転に定評のある友人は赤信号を無視するなど最初からおかしなことが起こった。それは、死者からの招きのようでもあった。
道案内をした地元在住の友人も見知らぬ土地のように、地理感覚を失いながらも、送信所にたどり着いた。そこで突然、靄のようなモノが行く手を阻むかのように現れた。小学校時代にも霊体験をしたことがある、寄稿者は真っ先にそれを見た。しかし、送信所を抜けると、靄は晴れ、また近づくと、現れたという。そのため、建物を見ることさえできなかった、という。友人の一人も金縛りに遭った…。

「さまよえる軍服の幽霊」は送信所が「ニイタカヤマノボレ」を発信した施設という話と結びついているように思える。

ネット上で「送信所はニイタカヤマノボレを発信した地」という記事が複数存在する。廃墟について綴った本にも「太平洋戦争直前には、軍用無線基地として転用され、真珠湾攻撃の暗号文『ニイタカヤマノボレ』『トラトラトラ』が送受信された等の逸話も残っている」とある。
ニイタカヤマは漢字で「新高山」と書く。当時、日本領だった標高三九五二メートルの台湾の玉山のことで、占領下の日本では富士山を抜いて最高峰だった。
そのニイタカヤマノボレに登れということは軍の野心のようなものだったのかもしれない。
この暗号は長く続く戦争の始まりを告げる日本で最も有名な暗号である。

しかし、検見川送信所がニイタカヤマノボレを発信した事実はない。
長崎新聞のホームページには、当時の通信記録を調べた防衛庁防衛研究所調査員の菊田愼典さんの話が載っている。
「暗号文は開戦六日前の四一年十二月二日、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電。広島県の呉通信隊から針尾など国内三つの送信所に分かれて海外に送られた。このうち針尾送信所は中国大陸や南太平洋の部隊に伝え、真珠湾を攻撃する機動部隊が受信したのは千葉県の船橋送信所を経由した電波だった―」(長崎新聞二〇〇五年四月十九日)

国内3つの送信所というのは針尾無線塔のほか、船橋送信所(千葉県船橋市行田)、依佐美無線塔(愛知県刈谷市)を指す。おそらく、海軍行田送信所の史実がどういうわけか、検見川送信所に摺りかえられてしまった。
検見川送信所は戦時中、台湾、中国、パラオ、マカオなど植民地との通信を行っていた。具体的にどのように軍事利用されたかは資料が残っていないが、「検見川無線史」には一九四五年八月十五日の様子が書かれた一文がある。そこには、各通信回線が休止となり、記録書類を焼却したとある。
この焼却こそが軍事に関わっていた証拠と言えなくもない。戦時中は軍が駐留した事実はあるが、基本的には逓信省の職員が働いていたのである。送信所と軍服の幽霊はまったく根拠がない。「口裂け女」や「トイレの花子さん」同様、都市伝説のひとつにすぎない。 

しかし、こうした事例は歴史を見れば、よくある話にすぎない。
一九二三年九月(大正十二年)の関東大震災では、朝鮮人が暴動を起こしたという流言があっという間に広まり、朝鮮人だけではなく、多くの日本人も犠牲になった。
一九七三年には女子生徒が何気なく話していたことがきっかけで、豊川信用金庫から二〇億円の預金が引き出されるという騒動が起こった。同じく、オイルショックの時に、トイレットペーパーが品切れになるというパニックも間違った情報がきっかけで起こっている。

しかし、情報が高度化すれば、こうしたデマもなくなるわけではない。ツイッターでも、首相や有名人の偽者が登場したり、某有名キャスターがサッカーW杯のゲームでPKに失敗した選手の母親に対して、心ない質問をしたという偽情報が一気に広まったりしている。
それにしても、情報を発信し続けた送信所がデマ情報に躍らされているというのは皮肉なものだ。

建築的にも、通信史的にも重要な検見川送信所はなぜ、こんな扱いを受けているのだろうか? 
それは兎にも角にも、送信所がどんな建物であったのか、知らない人が多いのではないだろうか。この建物に足りないのは、まさにそうした「情報」であり、「物語」ではないのか。土地や建物にはそれぞれの物語がある。人間はそうした物語性を大事に生きているのだ。

この物語を伝える手段として、ノンフィクションではなく、「ノンフィクション小説」を選んだ。事実を並べるのではなく、娯楽性に富んだ小説の方が、より多くの人に読んでいただけるだろうと思ったからだ。
「関東大震災篇」では送信所がいかなる背景で誕生したか、「ツェッペリン号篇」では昭和四年のドイツの飛行船ツェッペリン号との交信、物語のクライマックスというべき「国際放送篇」では昭和の男たちが、使命感に燃え、世界から「できるわけがない」と言われた難事業をたった一六日間で成功させる姿を描く。「戦中篇」を経て、「閉局篇」では、労働者が自分たちの職場を守ろうとする姿を一人のリーダーの姿を通じて、紹介する。「閉局篇」では、送信所がどうして今日のような廃墟となったのかが見えてくるはずだ。

一九七九年の閉局後、NTTと千葉市が土地の等価交換を行った。千葉市は都市計画の中で、中学校用地と決め、建物を取り壊すことにした。しかし、なぜ、それがここまで放置されるに至ったのか? 閉局をめぐっては公社側と労働者側の対立を生んだ。しかし、記念碑を建てたのは公社側にいた職員の寄付によるものだった。この閉局後から一九九九年までを描く最終章「失われた二〇年」では小説の形式は取らず、唯一ルポルタージュとした。

また、無線、放送、建築に関わった人間に留まらず、昭和初期の新聞記者の考え、生き様がどのようなものであったのかも明らかにしていきたい。多くの部分は事実に基づいているが、一部フィクションも含む。取材にあたっては「高橋信三記念文化基金」の助成を受けている。

二〇一〇年現在、検見川送信所は保存に向けた調査を行なわれようとしている。これについては「あとがき」で触れたい。

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