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2008年4月20日 (日)

田中正造ドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」

千葉県教育会館で行われた田中正造ドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」を小5の娘と見てきました。

田中正造という人物を知ったのは小学校か中学校の教科書でした。単純に、足尾銅山鉱毒事件で苦しむ民衆を救おうとする姿に感銘を受けました。政治家というものは、こうした存在であってほしい、と子供ながらに思ったものです。というわけで、少々難しいだろうなと思いながら、娘にも見せたかったのです。

それとは別に、田中正造の人生は非常に映像的だとも思っていました。

富国強兵、日露戦争での勝利と国威あがる時代。そして、国策の下苦しむ民衆。鉱毒ではげおちた山。貯水池にするため、沈む村。それぞれ、時代を象徴するものがあり、田中正造を軸に明治時代の人々の生き様をくっきりと浮かび出すことができる。特に、民衆が請願権を行使して、デモを起こすモブ(群衆)シーンや田中正造が明治天皇に直訴する場面などは迫力がある。これは映画にすべきだ、と。

しかし、そんな思いは城山三郎の「辛酸」を読んだ程度で終わるのですが、田中正造のドキュメンタリーがあると知り、どんな作品なのかと興味を持ちました。

田中正造は明治天皇への直訴事件のせいで、左翼的に見られる節もありますが、僕はそんな風には捉えていません。単に困った人がいる、そういう人々を助けたい。それを行うのが政治家の役目である。そんな風に感じていたのではないでしょうか。

さて、映画の話。

「ドキュメンタリー映画」という言葉には抵抗がある人もいるかもしれません。

というのも、映画は70年代に収録した関係者証言と現代の研究家のインタビューのほかに、再現ドラマで構成されているからです。ドキュメンタリーというと、実録映像だけで構成されると考えがち。そういう意味では、ドキュメンタリー・ドラマといったほうがいいかもしれません。

ドキュメンタリー・ドラマは「大韓航空機爆破事件」や「オウム事件」などで最近、テレビ界ではよく使われている手法ですね。

ただ、ドキュメンタリーとドラマの間に実はそんなに違いはないのです。

「いやいや、ドラマは作り物、ドキュメンタリーは実録だろ」とおっしゃるかもしれません。確かにそうなんですが、使っている道具は違えども同じ映像作品です。たとえが適当かは分かりませんが、鉄筋か木造かの違いはあるにせよ、家は家というのと同じかもしれません。

映画「靖国」の問題で、自民党議員が”ドキュメンタリー映画なのに公正な視点を欠いている”といった趣旨で批判しましたが、それは的確な映画批評とは思いません。

へたれアマチュア映像作家として、言わせていただくなら、ドキュメンタリー映画はそもそも、公正な視点で描かれているものではありません。作家の目線によって撮影もしくは編集されているものです。

それは最近のドキュメンタリー映画のヒット作を見ても明らかです。銃社会を痛烈に批判した「ボウリング・フォー・コロンバイン」、マクドナルドの健康被害を批判した「スーパーサイズ・ミー」、環境問題を訴える「不都合な真実」。

それらに公平性にあるのでしょうか? もちろん、マイケル・ムーア監督は全米ライフル協会のチャールトン・ヘストン会長にも直撃しますし、「スーパー・サイズ・ミー」では監督はマック側にも取材を試みたりもしています。そこで公平性を保っているようにも見えますが、そこは一種のアリバリ作り。作家なりの公平さを見せるテクニックにすぎない。作品自体は明らかな意図や主張を持って描かれています。

「公平性」というのは政治の世界にこそ求められるべきで、逆に作家たちを「公平性」で縛る必要はない。むしろ、「表現の自由」を尊重すべきなのです。自民党の施策の方が公平性を欠いているのではないか、と思うのですが、いかがでしょう?映画「靖国」をめぐる問題は機会があれば、書きたいと思います。

さて、この田中正造映画に戻ります。僕はドキュメンタリー・ドラマという手法はありだと思っていますが、この作品の場合、挟み込みがあまりうまくいっていません。風貌などでは田中正造に似ていますが、演技、演出ともにオーバーで、その結果、全体がうまく流れるようになっていない。つまり、国会での人道的な演説など、一種見せ場的な部分の連続といった形で、ドラマが挿入されているので、感情移入がしにくい。

ヤマ場という言葉で分かるとおり、平らなところがあって、ヤマ場が存在するわけです。ヤマ場の連続ではヤマ場になりえません。

ドラマはドラマとして見せる、ドキュメントはドキュメントで見せるといった構成の方が観客に混乱を招かずに済んだのでは、と思いました。全体の予算が少ないのは分かりますが、ドラマ部分のチープさは否めません。

あるいはドラマ部分をさらに増やして、その裏付け部分として、ドキュメントを使うなどすれば、よかったのではないか、と思います。映像がない部分をドラマでついではいだように見えるのは演出の失敗でしょう。

冒頭はもアメリカのどこかの田舎風景を流し、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の朗読します。これらは、今、足尾銅山鉱毒事件を取り上げる意味を強調するための”道具”なのですが、いきなり、ドラマの部分を見せてしまう方がよかった気がします。

欠点はあるにはあるのですが、見るべきところはあります。何を描きたいのか、という作家の意欲は感じられる。国家対個人の関係性、産業と環境など普遍性のあるテーマがあり、考えさせられます。また、田中正造の個人史も面白い。

田中正造は元は名主の生まれ。17歳の時に悪友と遊郭に出かけ、性病にかかる。それが元で家出をしたり、時の支配者に刃向かって、監獄に入れられたり、隣村にいた少女カツを籠に入れてかついで、連れて帰って、妻にめとったりと破天荒な青春時代が印象的です。

その後、県議を経て、国会議員に。足尾銅山鉱毒の現状を目の当たりにして、国会で質問。自分が所属していた政党が政権を取ったことから、民衆の直接行動を抑えて、「オレが責任を取る」というが、国会答弁では山県有朋首相に無視され、離党。その後は国会議員を辞職します。

有名な明治天皇への直訴は野に下ってからで、このときは死をも覚悟。妻カツに迷惑をかけたくないと離縁状を送ったりするが、事件は狂人によるものとされ、翌日には無罪放免に。

こんな男を夫に持つ妻の苦労はいかばかりかと思います。妻・カツも婦人運動に参加していた事実などは描かれますが、もう少し夫婦としての関係性が描かれればよかったかと思います。

背景には明治時代の有名人が多数出てきますし、これはドキュメンタリー・ドラマではなく、一大ドラマとして描けば、面白くなる。そんな思いを新たにしました。

田中正造ドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」は全国で巡回上映を行っています。

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コメント

田中正造さん。地元の方ですし、最近映画などで取り上げられることもあって、図書館などでも関係する本が多く出ているようですが、未だ読んだことがありません。

今日の記事を拝読して、ちょっと読んでみたくなりました♪

ドキュメンタリーの公平性・・・・報道ではなく芸術作品だとしたら、公平性を求めること自体が無意味な気もしますね。

投稿: しぇるぽ | 2008年4月24日 (木) 06時19分

>しぇるぽさん

田中正造さんは栃木のヒーローですね。本もたくさん出ていますね。ぜひ読んでみてください。「辛酸」は前半は田中正造の話、後半は彼の意志を継いで行動した人々のお話という構成だったと思います。

ドキュメンタリーは芸術でも娯楽でもあると思いますが、事実をねじ曲げない限り、偏っていても問題はないと思います。そこに主張があるわけですから。市川崑監督の「東京オリンピック」でも、オリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判しましたが、これはナンセンスだと思います。

投稿: 久住コウ | 2008年4月24日 (木) 11時56分

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