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2008年5月 7日 (水)

千葉県下最古の鉄道遺跡「総武鉄道物井川橋梁亀崎台跡」は夢のあと

千代田調整池の鯉のぼり見学後、総武鉄道物井川橋梁亀崎台跡に向かった。


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ここは千葉県下最古の鉄道遺跡だそう。平成19年3月に四街道市文化財に指定されている。

先日、四街道市の戦争遺跡を案内してくださったかっぱ画人さんがブログで紹介していて、俄然興味が出た。

「あそこは道が狭いので、自転車で行くといいですよ」

かっぱ画人さんは言った。その後、ネットで情報収集した。しかし、「総武鉄道物井川橋梁亀崎橋跡」というのが説明板にある呼称は、佐倉市内の情報紙のpdfファイル化された記事が一件引っ掛かるだけ。四街道市のホームページすら検索にヒットしない。物井~佐倉駅の間の田園地帯にあるとは聞いたが、それがどこにあるか分からない。

調整池で出会ったおばさんは「あの戦争遺跡」と言ったが、こんな広報体制では無理もないと思った。

かっぱ画人さんに聞けば、もう少しはっきりとした場所は分かるのだけど、あえて聞かなかった。ブログの写真や文にヒントがある。それがどこにあるのか、そのミステリーを解くのも一興だろう。

キーワードは亀崎、物井川、物井~佐倉駅間の田園。

千代田調整池からまず亀崎に出る。一つ坂を下ると、右手に田園風景が広がる。


総武鉄道物井川橋梁亀崎台跡から見た田園風景(GX100で撮影)

たまたま農家の人が歩いていたので、場所を聞いた。訛っていて、よく分からなかったけど、指さしてくれたので分かった。

僕はゆっくり自転車を進ませたが、そこは行き止まり。引き返して、別の道からアプローチする。かっぱ画人さんが言うように道は細い。車はトラクターや軽トラじゃないと、つらい。3ナンバー車なら田んぼに落ちそうだ。

そんな風にちょっとだけ苦労しながらも案外あっけなく見つかった。

レンガが積まれた土手。何も知らない人が見たら、それだけの場所である。

しかし、ちょっとだけ苦労して見つけたお陰もあって、僕は予想以上に感慨を覚えた。田園風景は今も昔もそんなに変わらないだろう。この上に橋があって、SLが走っていた。

そして、今はレールも橋もなくなり、土台がある。ここはかつての総武鉄道の夢の跡、巨大な墓標そのものである。

現在は電化された総武線の電車がその脇を行く。

この橋梁跡に足りないものはレールでも橋でもSLでもない。この橋梁がいかにして作られ、いかにして消えたのかという物語なのだ。

それには軽く鉄道史をひも解く必要がある。

日本最初の鉄道が誕生したのは1872年(明治5年)9月12日、新橋駅~横浜駅間。その18年後の1890年(明治23年)8月25日、千葉県初となる鉄道が市川~佐倉間に完成した。これは全国的に見ても早いとは言えなかった。

鉄道敷設が遅れたのは、利根川水路をめぐる利権争いが背景にあった。

内陸部の有力者たちは鉄道の必要性を強く訴え、1887年、民間の鉄道会社「総武鉄道」を立ち上げるが、千葉県知事が反対を表明する。

1989年(明治22年)12月26日になって、ようやく許諾が出た。しかし、鉄道は「金を失う道」と揶揄されるように莫大な資金が必要。折からの社会不況に加え、ルート選定などをめぐって、内紛も起こり、総武鉄道の創業者たちは大変な苦労を強いられた。

そうして、ようやくルートが決まるわけだが、地形的に困難だったのはこの物井~佐倉間だったという。当初は現・総武本線が通るラインを予定していたが、トンネルを掘らなければならず、予算の都合で断念。迂回する北ルート(地図上、ピンクのライン)が選ばれた。


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トンネルを回避しても問題はあった。ここ亀崎地区は田園地帯。続く佐倉は大地で、高低差が激しい。おまけに亀崎は地盤が弱い上、物井川(鹿島川)が横たわっている。そこで、長い橋をかけるため、この橋梁が作られた、というわけだ。

好奇心に任せて、橋梁跡に登ってみた。

線路の残骸などがあるかと期待したが、雑草が埋め尽くすだけだった。

しかし、橋梁以外に何も跡がないかと言えば、そうではない。佐倉方面を見ると、国鉄清算事業本部の看板があり、この空き地に線路があったことが伺える。

こちら側に橋梁があったということは佐倉側にも橋梁があるはず。そう思って、付近を歩いたが、見つけることはできなかった。前回紹介した佐倉の情報紙によれば、佐倉側のものは既に撤去されたという。

しかし、根こそぎなくなったというわけではないようだ。土台の根っこ部分は今も、草むらの中に隠れているようだ。遺構探しは草木が枯れる秋から冬が最適と言われる。時期を見て、再探訪してみよう。

それにしても、この橋はどうして消え去ったのか。

「総武鉄道」から「国鉄」に変わった総武本線は戦後、電化・複線化が進み、この物井~佐倉間は当初予定したルートに線路が敷かれることになった。1968年(昭和43年)3月のことである。総武鉄道の創業者の構想から実に約78年を要したことになる。そして、橋は撤去され、この土台部分だけが残ったというわけだ。

この橋梁は一時、消滅の危機があったそうだ。前述の通り、この土地は国鉄清算事業本部の所有地。民間に売り払われる可能性もあった。しかし、07年3月、四街道市が市文化財に指定し、文化遺産として残ることになった。

この県下最古の鉄道遺構は千葉の鉄道の父たちの「夢のあと」。この遺構を起点に、僕らは”鉄道開拓時代”に思いを巡らせるのだ。

2008年5月11日 (日)
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参考文献

総武鉄道物井川橋梁亀崎台跡Photo

写真はキャノン30Dで撮影。

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コメント

今の総武線と地図上で見くらべると、以前の総武鉄道線路は大きく迂回していたように見受けられます。
現在線は旧線を単にショートカットしたようにしか思われないんですが、そこにはどんな物語があったのかなぁ。
続きが楽しみです。

P.S.
知る会HPで、代表の挨拶・略歴と1930年10月のスパイダースの注釈等、細かいところを修正しましたので確認してみてください。

投稿: まさやん | 2008年5月 8日 (木) 09時41分

>まさやんさんへ

>続きが楽しみです。

そういってくださったので、ここでは種を明かさないことにしますね(笑)。

この橋梁もそうですが、分かりにくい文化財の重要性が伝わらないのは物語の欠如なんだと思います。

検見川送信所の場合も、同じような思いがあって、ノンフィクション小説化を試みたのでした。

>知る会HPで、代表の挨拶・略歴と1930年10月の
>スパイダースの注釈等、細かいところを修正
>しましたので確認してみてください。

ご苦労様でした。今から拝見します。

投稿: 久住コウ | 2008年5月 8日 (木) 22時15分

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