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2008年5月11日 (日)

総武鉄道のフロンティア~安井理民の足跡を追って~「坂の上の雲」の時代、千葉に鉄道を敷こう、と考えたのは成東の28歳の若者だった 

前回、自転車で物井川橋梁跡を訪ねました。これを作ったのは、民間鉄道会社「総武鉄道」。

総武本線は明治27年7月20日、市川~船橋~千葉~佐倉間が開通。千葉県初の鉄道となった。その誕生は日本鉄道史において、けっして早いとは言えないが、その物語は特筆すべきものがある。

総武鉄道は元々は2つの鉄道会社だった。

明治20年11月、佐原町の伊能権之丞ら12人が本所(現・錦糸町)~佐原間に鉄道を通そうと武総鉄道を設立。

一方、成東(なるとう)町の安井理民(はるたみ)ら14人も本所~銚子までの武州鉄道を設立した。同時期に、しかも都市部ではなく、地方農村の有力者たちが鉄道敷設に動いたという事実が面白い。

現在、地方分権が叫ばれ、「地方から世の中を変える」というのがスローガンのようになっているが、明治時代の男たちは、既に地方から、しかも民間の力で世を動かそうと思っていた。

彼らはどんな人物だったのか?

総武鉄道の創業者の一人、安井理民の足跡を辿って、彼の生まれ故郷・成東に行ってみた。

本日は雨模様ということで、サイクリングは断念。都賀から総武本線に乗った。電車で辿るほうが今回の目的にはあっているように思える。この文章も、車中で携帯電話のメール機能を使って、書いている(後でパソコンで手直し)。

9:40都賀(鹿島神宮行)

物井駅を過ぎた辺りから進行方向左手に注目。物井川橋梁跡が見えます。この前後は線路跡を思わせる細長い空き地が見える。


帰りの特急「しおさい」の車窓から撮影

橋梁跡を過ぎると、創業者が構想を描きながらも予算の関係で断念した寺崎トンネルを抜ける。しばらくすると、佐倉駅。ホーム手前では旧線の名残を見ることができる。

9:51佐倉

成東に行くために乗り換え。本数が少ないせいか、乗車率は高いように思えた。この先は単線。

9:58佐倉(成東行)

10:24 成東着


大きな地図で見る

成東駅には0番線ホームがある。

ホームは改札の近い方から1、2、3、4番と作られるのが通例のようで、1番線よりも手前に後からホームが作られた場合、そこは0番線となるという。0番線ホームの存在は京都駅などが有名とか。


0番線は行き止まり。始発、終着電車が止まる


入線してきた10:48発千葉行き。東金経由の電車

理民の記念碑があるというので、下車してみた。記念碑は改札を出て、左側にあった。

参考文献


成東駅にある「魁」の碑

僕は誰もが知っている偉人よりも、割とマイナーなドン・キホーテみたいな男に興味を持ってしまう。

成東は総武本線と東金線がクロスする駅だが、今でも風光明媚なのどかな町だ。

ここは「野菊の墓」で有名な作家で詩人の伊藤左千夫(1864年9月18日 - 1913年7月30日)の故郷でもあり、東京方面から来ると、ホーム階段を降りてすぐのところに、左千夫の記念碑がある。

「久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし」

久々に故郷は帰ってくると、いいもんだなぁと思うという歌。自分よりも3歳年少の正岡子規(1867年10月14日 -1902年9月19日)に師事して東京・千駄木にいた左千夫だが、成東を愛していた。そして、その東京~成東の往復に使っていたのが総武鉄道というわけだ。

安井理民の足跡を探るには、まず指定文化財にもなっている生家を見に行く必要がある。しかし、ネットで調べてみたのですが、場所がはっきりしない。駅前の観光案内で聞いたが、「個人宅なので、教えることはできません」と申し訳なさそうに言われた。


山武市HPより

文化財なのに、教えられないというのは変な話ですが、個人の意思を尊重するとか、治安上の問題やらがあるのだろう。

ある町の文化財に指定されている、ある個人宅を通りから拝見しようと思い出掛けたことがある。かなりの豪商で、門、倉、本宅が指定されているのですが、門にはビデオカメラが二台設置されていて、物々しい雰囲気でした。なるべく目立ちたくないという方もいて、行政側も配慮しているようだ。

とはいえ、訪ねて歩けば、なんとかなるもの。住所は明かしませんが、駅から徒歩7、8分の場所に生家はあった(もっとも実際はもっと歩いている)。山武市のHPにあるような風情のある日本家屋ではないが、史跡標はそのままだった。



真ん中より、やや右に見えるのが史跡標

住宅は既に数年は経過しているようで、旧宅は既に取り壊された後だった。探訪は間に合わなかったか。どうやら、山武市HPはありし日の生家を掲載していたようだ。

理民がどんな人物だったのか、そのヒントは山武市歴史民俗資料館・伊藤左千夫記念館にあった。

山武市歴史民俗資料館では「総武鉄道物語」(著・塚本庸)という冊子が一部1000円で売られている。

さて、消えた理民の生家ですが、成東の隣、芝山にある芝山公園に移築・保存されているという。

「こちらとしても、保存へ動こうとしていた矢先だったのですが」と関係者は言う。成東の偉人の生家がその町にないというのは残念な気がする。

ここから約20分の場所と聞きまして、歩いて行こうと思ったのが、「いいえ、車で20分」。今回は時間がなく、断念した。

安井理民こと安井半蔵は1859年(安政6年)3月3日、成東村に生まれた。家は裕福で、7歳の時から寺子屋で、13歳から塾で朱子学など学んだようだ。若い時分は洋装を嫌い、和服にまげというオールドスタイルを好んだ。ギョッとする話ですが、日本刀の試し切りと言って、松に吊るした猫を切ったというエピソードもある。

気性は激しかったが、明治11年、19歳の時に戸長と言われる村の代表となるなど人望があった。大地主でもあった安井家は当時、呉服商に農業経営も。呉服は東京の問屋から買い、農作物は東京へ売る。しかし、流通では苦労した。


現在の成東町

1882年(明治16年)、上野と上毛の製糸業地帯だった熊谷を結ぶ鉄道ができ、理民はこのままでは成東は遅れを取ってしまうと焦りを覚えた。また、戸長の仕事を通じて、中央の政治の情報も入ってきたのではないか。

そもそも疑問というのは、実にシンプルだった。交通の便が悪いからなんとかしたい。それが理由と考えてよさそうだ。成東は水路のある銚子、利根川に出るにも時間がかかる。


大きな地図で見る

理民は親友の塚本正脩と相談し、東京への視察を決める。昔ながらの着物スタイルで出かけるが、帰郷の時はまげを切り、洋装姿で人々を驚かせた。彼は保守的な人物だったから、東京で目にしたものがよほどの衝撃だったと思われる。

彼は地元の有力者に協力を求めた。しかし、誰も鉄道を知らないわけで、説得は簡単ではなかっただろう。

1887年(明治20年)、28歳の時に「半蔵」から民をおさめるという意味の「理民」に改名。これは決意表明であったのだろう。同年、総州鉄道を設立。同時期には佐原町の伊能権之丞らが武総鉄道も立ち上がるが、ともに県知事から却下される。

理由は千葉県には海運が開けている上、両社とも事業の計画性に問題がある、というもの。

しかし、理民はめげずに総州鉄道と武総鉄道の合併に動き、より一層、鉄道の有用性を問いて回る。そして、念願の総武鉄道は1889年設立した。


山武市歴史民俗資料館の玄関に飾られたC58型蒸気機関車の一部

今回は水運会社の理解、さらには陸軍の協力を得ることが大きかったようだ。明治時代、道路状況も悪く、大量の人員、兵器を運ぶのに鉄道は欠かせない存在だった。「鉄道は兵器なり」といわれた。

千葉県には国府台(船橋)、習志野(津田沼)、下志津(四街道)、佐倉に軍事施設があり、これを結ぶことは帝都防衛の要となる、と理民は訴える。

当時の日本という国は、彼らが作り出した作品だった。

戦争なくして、文明の発展はない、と主張する人もいるが、その根拠はこういった事情にある。とにかく、鉄道敷設は富国と強兵、明治を象徴する四文字の両面を持ち合わせていたわけだ。

総武鉄道は多数の支持を受ける環境にあり、一時は株が飛ぶように売れるが、不況に巻き込まれ、株価が暴落。理民の資金も底を尽き、さらには病に倒れてしまう。

総武鉄道は1894年(明治27年)3月23日に第1弾として市川~佐倉間で開通し、5月1日には佐倉~成東間、6月1日には本所(錦糸町)~銚子間が開通するわけですが、理民はそれを見ずして2月16日に亡くなった。36歳の若さであった。

理民の先見の目はすぐに実証されることになる。開業10日後に日清戦争が勃発。佐倉の第2歩兵連隊は総武鉄道の臨時列車に乗って出発(行程、経路未確認)。経営も黒字だった。

この時代の日本人の気質については司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。

その主要登場人物、正岡子規についても触れておこう。

新聞「日本」の記者でもあった子規は同年12月に総武鉄道に乗って、佐倉を訪れた。同地で歌も残している。また、後に子規に師事した伊藤左千夫は当時、東京で起業したが、帰郷の際は総武鉄道を利用していた。総武鉄道は戦争、文化、物流とあらゆるものを運んできた。

鉄道は兵器であり、歌の道でもあった。

鉄道敷設に当たっては、若くして亡くなった理民に注目が集まりがちだが、事務局長として働いた塚本正脩の功績も大きいように思える。

理民はイケイケの行動派、塚本は事務処理の達人だったようで、後に成東町長に推される。この性格も才能も異なる二人が両輪となり、文字通り、レールを走っていった。

成東駅にある2つの車輪のオブジェは理民、塚本、2人の姿なのだろう。


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コメント

前回の物井川橋梁の記事は読ませました。僕的にはこういう昔の遺稿を探ることに関心が高いので、地図と写真を何度も行ったり来たりしながら、久住さんの文章を味わいました。

今回も読ませますね! 趣味誌に掲載されている紀行モノに匹敵します。

開通当時の歴史を紐解いてみると、同じ路線であっても電車や沿線風景がまた違って見えてきますね。

投稿: まさやん | 2008年5月12日 (月) 13時21分

まさやんさんへ

お誉めの言葉ありがとうございます。

検見川送信所の一件以来、何気なく通りすぎるもの、見過ごしている物の面白さに見い出そうというのが、僕の物の見方の癖になっているようです。

漠然と思っていた点と点が線になり、面へと進化していくと、視界が広がるような痛快さがあります。


投稿: 久住コウ | 2008年5月13日 (火) 12時04分

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