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2008年7月17日 (木)

浜口首相の「ラヂオの時間」~日本初の国際放送(2)

2008年7月14日 (月)
浜口雄幸首相が語る~日本初の国際放送(1)

の続き。

浜口雄幸は日記とともに、随感録を残している。これは昭和4年7月、週に1度、3週間に1度、鎌倉で静養していた際に書き付けていたものだという。浜口にとって、ロンドン海軍軍縮会議が大きく動いた昭和5年9~10月までは「色々のことに不思議に興うが湧き、その頃は割合に多くの記事が書けた模様であります」(娘・富士子)とある。

随感録では、「軍縮放送演説」という章もある。

日本初の国際放送は昭和5年10月27日深夜に行われた。これはロンドン海軍軍縮条約の締結を祝って、日米英のトップが交歓放送を行おうという試み。暗い戦争に突入する前の、わずかに平和を模索した時代だった。
その浜口首相の演説を世界に発信したのが検見川送信所である。


(C)検見川無線の思い出より

この日の浜口は忙しい。朝、京都を出て、夕刻に帰京。
愛宕にあった中央放送局(現NHK)には午後11時15分に入った、とある。

同50分から約8分、浜口が日本語で演説し、その後フーバー大統領、マクドナルド首相が続き、最後に松平駐英大使が浜口の演説を通訳した。

日本が、世界が、この放送に注目した。愛宕山の放送局には黒山の人だかりだった、と新聞報道にもある。

放送の感度について、浜口は以下のような所感を述べている。


英米側の放送は、共に雑音が大分激しく且つ両氏共可なり早口であったので十分に聴取り兼ねたが、それでも遠距離間放送の最初の試みとしては、大体において大成功と申すべきである。
 
 松平大使の通訳放送は、雑音もかなり有りはしたが、流石に稍々聴取り易かった。余の放送は、英米よりの通信によれば、かなりよく聴取れたといふことであるが、其の程度は未だ判然せぬ。松平大使からの外務省への来電に依れば、二三度中断されたが、其の他は大部分明瞭に聴取出来たとあつた。



また、ラヂオ放送については「余にとつて一生の記念になるべき事柄」と書いている。

余は「ラヂオ」放送に就いては此の前一回(※昭和4年8月28日、演説「経済難局ノ打開ニ就テ」)の経験があるから大分気分が楽だったが、それでも倫敦海軍条約批准書寄託式といふ歴史的大事業に就いて、米国大統領・英国首相と共に自分の所感を全世界に向つて呼び掛くるのであるから、前回の場合とは聊(いささか)か責任の軽重がある訳である。

 一体、「ラヂオ」放送は変な気持ちがするもので、「アナウンサー」の他には人っ子一人居ない狭い部屋の中で、誰に向つていふでもなく、漠々焉として、原稿を実ながら一人演説するのであるから、、初めの内は張合ひのないこと夥しい。

 だから、演説の調子が頗る変挺で気合が乗らず、棒読みの早口となり易く、我ながら可笑しくなるが、三分五分とやって居る内に、自分の此の演説は、中継放送に依つて、全国何百人の人々が、肉眼こそ見えね熱心に聴いて居るといふ其の光景が心眼の中に現はれ来り、自然に気合がかゝり、力が入るやうになつて来るのであった。

 况(ま)して今回の場合は、全世界幾億人が一語も聴き洩らすまじと熱心に聴き入つて居るな(無論西洋人に日本語は分からぬだろうけれども)といふ気分があるから、開口一番のくさりはさつぱり調子が取れなかつたが、第二句、第三句あたりから大分緊張して演説することが出来たのである。(原文まま)


愛宕放送局は現在、NHK放送博物館になっているが、当時の建物ではない。国際放送の最初の一歩を現在に残しているのは検見川送信所ただひとつである。

検見川送信所CG再現~past,now,future~-2008年2月2日(再生時間1:39)

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