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2008年8月21日 (木)

ツェッペリン号、79年前の衝撃

検見川送信所の竣工当時の姿を再現したCG(きくちさん製作)には、飛行船が描かれている。僕はこの飛行船の存在がずっと気になっていた。

飛行船の名前はグラーフ・ツェッペリン号。「グラーフ」は伯爵という意味で、ツェッペリン伯号とも言われる。かのロックバンド「レッド・ツェッペリン」もこの飛行船から取られている。

ツェッペリン伯号は1929年(昭和4年)8月19日夕刻、東京上空にやってきた。その時の絵はがきを入手した。


絵解きには「帝都の中へ雄姿を現したるツェ伯號」とある(実際は右から左に書かれている)

よほど暑い日だったのだろう?帽子を被った無数の人々が空を見上げている。午後の気温は36度だったといわれる。都民200万人、これだけの人間が空を見上げた日はなかったのではないか。

ツェッペリン号の全長は236.6メートル。サンシャイン60と同じ大きさという。巨大な物体が首都に浮かぶ光景は衝撃的と言って、よいだろう。「ツェッペリンを見たか」が合言葉となった。

ツェッペリン号が夢の世界一周に向け、米ニュージャージー州レイクハーストを出発したのは8月9日だった。金銭的に支援したのは、アメリカ、ドイツ、フランス、そして、日本の新聞社だった。アメリカではイエロージャーナリズムと言われたタブロイド紙が全盛を極めていた。最も、出資金を出したのは、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが経営者だった「ジャーナル」だ。

ハーストはかの天才、オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」のモデルであり、マスコミを牛耳ることで世の中を動かそうとした。1898年のキューバをめぐる米西戦争では「変わったことはない」というキューバ特派員に対し、「そこに留まって君は記事を送れ、私は戦争を作り出す」と返電した、とされる。

ハーストはこのときと同様に「金を送る。だから、全世界の報道権をよこせ」、とリクエストした。しかし、ドイツ政府に拒まれる。結局、ジャーナルはヨーロッパ以外の独占権に15万ドルを出し、ドイツ政府が10万ドルを出したらどうだと提案。しかしながら、ドイツ政府もハーストのちょっかいには不快感を見せながらも金を出すことには渋った。

エッケナーも国よりも民間の援助を求め、2つの出版社とフランクフルト新聞、フランスのル・マタンの4つが5万ドル、残りを大阪の朝日、毎日が分担して、通信独占権を得た。

独フリードヒスハーフェンでは大阪毎日(東京日日新聞)の円地与四松記者、大阪朝日の北野吉内記者、日本海軍の飛行船の専門家である藤吉直四郎海軍少佐が乗り込んだ。

ツェッペリン号はウルム、ニュールンベルグ、ライプチッヒ、ベルリン、さらにフレミング船長の故郷、ステッチンを通過。これはエッケナーの粋な計らいだった。さらに船は革命直後のモスクワに立ち寄ることを要請されたが、燃料の問題から断念。これが国際問題に発展しかけるほど世界的なフィーバーだった。結局、ウラル山脈を越えて、シベリアを通り、日本に近づいてくる。

日本の無線人たちも、ツェッペリン号の行方には注目していた。同号は各国と交信を行いながら、旅を続けていた。ツェッペリン号との交信は逓信省トップからの至上命令であったようだ。飛行船が日本上空を飛んだことはなく、飛行船との交信はこれが本邦初であるから、当然とも言える。

検見川送信所、岩槻受信所が所属する東京無線局はツェッペリンの放つ電波を捉えようとした。「検見川無線30年史」には「日本文明の名誉にかけて、同号との速やかなる無線連絡が無線人の願いだった」とある。検見川送信所は逓信大臣からの祝電、歓迎会の計画、新聞からの祝電を打つ役割を任されていたようだ。

一方、ツェッペリン号の中でも、情報収集、通信機をめぐる熾烈な争奪戦が起こっていた。

朝日、毎日は日本への進入コースを予想する一大キャンペーンを全国で展開。

日本海からか? 太平洋からか?毎日は日本海説、朝日は太平洋沿岸説を取り、その機影を捉えるべく記者、カメラを派遣した。

朝日、毎日以外にも世界中のジャーナリストが乗船しており、各記者はニュースを打電していた。円地記者、北野記者は日本を目前にして、記事を送ろうとしたが、なかなか順番が回ってこない。

17日、しびれを切らした円地記者はレーマン船長に「もし今日明日中に十分に電報が打てなかったら、日本の新聞記者が参加したことが無駄になる」と抗議した。これに対して、ツェッペリン号の開発者で総指揮を執ったフーゴー・エッケナー博士は「欧米は休日であるから、アメリカ、ドイツは200語以内、日本は600語を認めるが、それ以上はダメだ」とはねのけた。

朝日、毎日それぞれ300語ということだ。

8月17日午後9時半から同40分にかけて、北海道根室の落石無線局がシベリア上空にいた同号の無線をキャッチし、交信に成功した。東京無線局も手柄を争ったが、落石局の成功を我がごとのように喜んだと美談になっている。

東京無線局は落石局から遅れること7分、9時37分に飛行船の無線符号を識別したが、落石局のために時間をおき、18日午前1時10分から通信を交換したと記録に残っている。

通信量は落石局が10,372語、東京局はわずか2,210語だった。

ツェッペリン号は19日午前6時、北海道神威岬から駒ヶ岳に向かい、北海道を縦断し、太平洋沿いに進路を取った。

朝日と毎日のスクープ合戦は朝日が制した。朝日は宮城県金華山沖を飛ぶ船影をキャッチし、19日夕刊に写真と記事を掲載。2ページに渡る号外を発行した。


大きな地図で見る

ツェッペリン号は太平洋沿いを南下し、利根川から東京を目指した。そして、谷中方面から上野公園上空を通る。飛行船からも群衆がうごめいているのが見えた。

円地記者は「西郷の銅像の辺りは非常な群衆だ。恐らく手を振り、万歳を叫んでいる」と回顧録「空の驚異ツェッペリン」に書いている。その後、横浜まで飛び、同じコースを戻って、霞ヶ関の係留場に降り立った。検見川送信所の脇をすり抜けるようなことはなかった。

では、きくちさんが制作した検見川送信所とツェッペリン号が一緒に写るCGは素敵なファンタジーなのだろうか?

きくちさんはツェッペリン号を点景に書き添えたことについて、こんな風に書いている。

「昭和4年のドイツの飛行船ツェッペリン伯号の飛来は、8月19日に飛行船が東京に突如姿を見せるなど大いに話題となった。この日本の通信技術をアピールする好機に各局が競って交信を試みたことが記録されている。根室の落石局に続いて、検見川送信所を含む東京無線電信局でも交信に成功したとの記録が残る(「日本無線史」第4巻p.277)。従って、実際に検見川上 空を飛行していたか定かではないが、点景に加えてみた」

もちろん、こんなに近くに船影が見えたことはない。恐らく、ツェッペリン号は検見川の25キロ先を飛んでいった。文献が見つからなかったのだが、何かの記録では、検見川から江戸川辺りの東京の建物が見えたと載っていたような記憶がある。当時は高層ビルもなく、空気も今よりは澄んでいただろう。19日の天候は晴れだったことを考えれば、その船影は肉眼でも確認できたのではないか。

検見川送信所は通信の中で、航路も把握していたはずで、職員たちは屋上に上がったり、アンテナに登ったりして、その到着を待ちかねていたはずである。「職員たちはツェッペリンを見た」と僕は考える。

さて、ツェッペリン号がもたらしたものは何か?

民衆の熱狂、飛行船の通信を使った新しいジャーナリズムのスタイル、飛行船との初の無線交信。それだけではない。カメラの名機「ライカ」の普及、それから、モダニズム建築のあり方にも大きな影響を残している。


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ライカは1926年に35mmサイズのフィルムカメラの原型バルナック型カメラを発表している。このA型と呼ばれるライカは日本に数十台輸入されたが、手にしたのは一部の知識人と富裕層だった。その中に検見川送信所の初代所長、菊谷秀雄氏がいる。

日本でのライカブームのきっかけはエッケナー博士である。エッケナー博士はライカを首から下げて、船から降り立った。スナップショットの神様、木村伊兵衛氏はフィルムニュースでエッケナーのカメラを見た。当時、これだけコンパクトなカメラはなく、衝撃を受けた。そして、持っていたカメラを全て処分して、ライカを買い求めたのである。

東大講堂の設計者で、昭和を代表する建物を数多く手掛けた建築家の丹下健三の後ろ楯となった建築学者・岸田日出刀(ひでと)も、早くからライカを手にした一人だ。その年12月、ライカで撮影した写真集「過去の構成」を発表。その後も「現代の構成」「熱河遺跡」を世に送り、発表し、建築家を刺激した。そういう意味では、ライカなくして、建築の発展はなかった。(「磯崎新の『都庁』より」)

その昔、欧米の時計、カメラ、バッグなどを「舶来品」(言葉自体は死語になりつつある)と呼び、珍重したが、ライカは船でしかも空からやってきたのだ。

ところで、この円地記者というのは、作家・円地文子の夫である。円地記者はツェッペリン号の乗船の前年、先妻を亡くした。その後、物理学者、随筆家、俳人の寺田寅彦を通じて、見合いをして、再婚する。ただし、その結婚生活は必ずしも幸せではなかったようだ。

円地文子は夫との見合いの様子を「朱を奪うもの」という小説で描き、ヒロインがあまり興味を持てない外国帰りの考古学者として、夫をモデルにしている。女というのはつくづく恐ろしい。同性愛者の雑誌「薔薇族」の編集長、伊藤文學氏も、ご自身のブログ『月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」』の2005年5月28日 (土)の記事で円地与四松さんとの興味深いエピソードをお書きになっている。

このようにツェッペリン号の飛来は、話が尽きない。最後に、検見川無線とツェッペリン号の話に戻る。

初代所長の菊谷氏は回顧録「検見川無線の思い出」を自主出版している。しかし、歴史的な出来事であったはずのツェッペリンとの交信については一切、記述していない。「検見川無線史」では、落石局に通信を譲ったことは「交譲の精神」であったと書いているが、同時に、「交信は失敗だった」ともある。両者からは微妙な心理をうかがい知ることができる。

しかし、この経験があったからこそ、翌1930年10月の日本初の国際放送の成功があったと考えるべきだろう。

  

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コメント

ツェッペリン伯号は送信所と時代的にもぴったりな、近代技術の産物として、描き入れて見たかったものです。手前味噌ながらやはりハマッてると思っています。
確か東京駅近く、東京中央電信局(=東京無線局)と写る同飛行船の写真をどこかのサイトで見たような。思い出せない。やはり、これは私の妄想か幻か・・・(笑)。

盆の家内の実家への帰省中に、戦前にライカを買って今も持っている親戚が居ると聞きました。本当かどうかさておいて、たぶん恐ろしく貴重なカメラだろうから大切にされるよう伝えました。
久住さんと知り合えたことが、こんな場面でも役に立ちました。

投稿: きくち | 2008年8月21日 (木) 22時12分

>きくちさん

>ツェッペリン伯号は送信所と時代的にもぴっ
>たりな、近代技術の産物として、描き入れて
>見たかったものです。手前味噌ながらやはり
>ハマッてると思っています。

おっしゃる通り、ハマっていると思います。だからこそ、僕もいろいろ調べてみました。

>確か東京駅近く、東京中央電信局(=東京無
>線局)と写る同飛行船の写真をどこかのサイ
>トで見たような。思い出せない。やはり、こ
>れは私の妄想か幻か・・・(笑)。

書籍を調べると、上野、銀座を経由していったようです。その写真は間違いなく存在していますね。もし見つかったら、URLを教えてください。
今回入手した絵はがきはヤクオクで落札したものです。発表から80年近く経っているので、この手の写真は著作権フリーのはずです。

>盆の家内の実家への帰省中に、戦前にライカ
>を買って今も持っている親戚が居ると聞きま
>した。本当かどうかさておいて、たぶん恐ろ
>しく貴重なカメラだろうから大切にされるよ
>う伝えました。

状態は分かりませんが、状態がよければ、まだ現役ですね。オーバーホールすると、さらに長持ちすると思われます。

>久住さんと知り合えたことが、こんな場面で
>も役に立ちました。

お役に立てて、光栄です。きくちさんもライカどうですか?近代建築を撮影するのに最適だと思いますよ。値段もお安くなりましたし。

投稿: 久住コウ | 2008年8月22日 (金) 17時10分

検見川送信所とは関係ない話ですが。
87歳(大正22年生まれ)の母親が、小学1年生のころ、自宅の近くに大きな飛行船が現れ、一時止まり、降りてきそうなくらいに高度を下げてきたので皆で見に行った。という話を何度か聞いたことがあったのですが、これだったんですね。
ちなみに、場所は埼玉県飯能市で市街地から1.5Km位東より。
南から来て、北に去っていったとのことです。

投稿: きむら | 2009年5月 9日 (土) 23時17分

>きむらさん

はじめまして。
このブログで最高に長い記事を読んで頂きありがとうございます。

>検見川送信所とは関係ない話ですが。

送信所と関係ない話も大歓迎です。

>87歳(大正22年生まれ)の母親が、小学1年生
>のころ、自宅の近くに大きな飛行船が現れ、一時止
>まり、降りてきそうなくらいに高度を下げてきたの
>で皆で見に行った。という話を何度か聞いたことが
>あったのですが、これだったんですね。

お母様が何度も話されたということはかなりの衝撃的な出来事であったということですね。

後日談です。ある方が検見川の住民に聞いた話ですが、検見川でも飛行船が見えたそうです。指の先に乗るくらいの大きさだったそうです。その方もきむらさんのお母さんと同い年くらいだと思います。

>ちなみに、場所は埼玉県飯能市で市街地から1.5
>Km位東より。
>南から来て、北に去っていったとのことです。

南から来て北ということは帰路でしょうかね。来た時は南下していったようなので。

投稿: 久住コウ | 2009年5月11日 (月) 08時46分

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