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2009年1月31日 (土)

旧京都中央電話局上京分局(カーニバルタイムス)

京都・鴨川の畔に、吉田鉄郎が残した旧京都中央電話局上京分局がある。岩元禄の西陣分局から徒歩10分くらいの場所だろうか。

送信者 カーニバルタイムズ

京都造形芸術大学教員の中西洋一さんによれば、京都中央電話局上京分局(カーニバルタイムス)と京都中央電話局(新風館)は商業施設への転換を計りましたが、旧京都中央電話局西陣分局(IT路地)は繁華街にはなく(準工業地域)飲食店や物販施設としての活用が難しいために京都府と共同で、ベンチャー支援のインキュベート施設として活用しています、ということ。

こんな話を聞くと、やっぱり京都は歴史的建造物の活用を心得ているなぁと思ってしまう。

岩元の西陣分局、吉田の2つの電話局はともに徒歩圏にある。年齢的にも、岩元が1893年、吉田が1894年生まれと、1歳違いだ。

向井覚が、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のように描きたいとして書いた岩元の伝記「建築家・岩元禄」(絶版)には、岩元と吉田の対照的な性格が記されている。





 山口文象(※1)はそのとき十八歳であったというが、若い新米の製図工の眼にうつった、岩元禄の第一印象を次のように語っている。

 「今はトレーシング・ペーパなどにかく設計のやり方ですが、あのころはケント紙にかいたものです。製図板を平らにおいて設計するのですが、岩元先生は立面図をかくときは台をもってきて、台の上に椅子をのせ、その上に登って上の方から眺めては降りて直し、また登って見る……というふうなやり方でした。なにしろ背の高い人がさらに上にあがるんですから、目立ちます。こうしたくりかえしでケント紙が消しゴム破れてくると、これをはり合せてまた直す。こうして最後にこれを清書するという今大分ちがったやり方でした」といっており、さらに「隣に机をならべていた吉田鉄郎の方は、まだあの中央郵便局で代表される作風の確立する以前で、机上にドイツの参考書や雑誌をうず高く積み上げ、それを見ながらハムプルグ派のシューマッヘルの亜流ようなデザインをしていた。それが岩元禄のオレのもはオレ、人真似しないといった気塊、いかにも対照的で印象的であった」という。




29歳で夭逝した岩元は豪放磊落(らいらく)という性格で、まさに「天才」。一方、吉田は努力の人であった。岩元は大正4年9月1日に東大東大工科建築学科に入学するが、吉田は不合格だった。

以下は建築家・三上清美の証言。



「そのころは、大学の入学試験は七月に母校の高等学校の教室で実施された。たしか、東大関係は、四高本館の正面玄関の上にある二階の教室だったように思う。五島君(※吉田の旧姓)は化学の試験で、塩の分離について記せという問題を慌てて砂糖の分離をかいてしまったとかいっていました。おとなしくて気の小さい方でしたから、試験であがってしまったのでしょう」



この結果、吉田は寺田寅彦の推薦で、理科大の理論物理学科に席をおきながら、勉強し、1年遅れで東大工科建築学科に入学した。卒業制作では、岩元が「美術館」を、吉田が「美術協会」を設計するなど共通点も多い。

この2人が残した3つの建物が周辺に建っていることは興味深い。

カーニバルタイムズはレストラン、スポーツジムが入った商業施設。窓からはランニングマシンで走っている人の姿が見えた。残念ながら、レストランは貸し切りで入れなかったのだが、機会があれば、食事をしてみたい。

送信者 カーニバルタイムズ
送信者 カーニバルタイムズ

京都歩きにはこれ。

※1)1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとり

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