« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

2009年11月29日 (日)

高橋信三記念放送文化振興基金贈呈式

秋年末ボーナス交渉は19日に終わったものの、バタバタと予定が続いていました。

20日(金)は大阪・阪急ホテルインターナショナルで行われた公益信託高橋信三記念放送文化振興基金の贈呈式に出席しました。「検見川送信所」に関する書籍出版企画が助成対象となったのです。

送信者 千葉市長、内部見学会

同基金は、民間放送の創始者の一人で、元毎日放送社長の故高橋信三氏の遺志により、放送文化の振興に寄与することを目的として平成5年9月に設立されました。

本年度は7つの研究などが助成対象となり、中には人気脚本家の市川森一さんが理事長を務める「(社)日本放送作家協会」(放送文化資産である脚本・台本の収集保存)も入っています。残念ながら、市川さんは欠席。

代理で出席された方は検見川送信所がある千葉市花見川区在住ということで、「新聞報道を読みました」と声をかけられました。世間は狭いものですね。

式典は毎日放送の山本雅弘会長が賞状を授与し、受賞者が研究内容を報告というスタイル。時間にして、約1時間。詳細は文化振興基金のHPに譲りますが、いずれも埋もれた放送文化の発掘というテーマが評価されたようです。

僕は検見川送信所の重要性を訴えるとともに、インターネットが台頭している今だからこそ、放送メディアのあり方の重要性、見直しが進むべきではないかといったお話をさせていただきました。

<発言趣旨>

「助成のお知らせをいただいてから、この日が来ることを楽しみにしていましたが、遅れてしまい申し訳ありません。私事ですが、組合の書記長を務めており、昨日、年末のボーナス交渉がまとまったばかりで、その雑事が若干残ってしまいました。

ここにはテレビ局の経営側のみなさんもいらっしゃいますが、年末ボーナス交渉は経営側も組合側も大変な思いで迎えていると思います。

昨年来の不況は「100年に1度」といわれていますが、前回の大不況というと、昭和4年の昭和恐慌になるかと思います。

検見川送信所が日本初の国際放送を成し遂げたのは、その不況が漂う昭和5年10月のことです。

当時、ロンドン海軍軍縮条約が結ばれ、日米英の3か国で、これを記念したラジオ放送を執り行おうということになったのです。当時の放送技術は世界的に未熟で、アメリカからは「日本にはその力がない」とさえ、言われました。

しかし、検見川送信所は、その下馬評をはねのけ、見事に成功を収めました。当時の首相、浜口雄幸の平和演説を届けたわけですが、不況にあえぐ人々にとっては、浜口首相の声は希望の声ではなかったか、と思っています。

こうした事実を掘り起こし、みなさんに伝えることで、放送が果たした役割を考えていただきたいと考えています」

僕がボーナス交渉の話をしたのを受けてか、毎日放送の会長、社長は「私ども、社運をかけた会議がありまして」と苦笑いを浮かべながら、途中、退席されました。

組合側だけでなく、テレビ局の経営陣の方々も大変だと思いますよ。

高橋信三とは?(wikipedia)

助成については、取材費30万円+出版費70万円で申請したのですが、取材費30万円の方が認められました。出版社は、自主出版ではなく、出版社を探してほしい、ということでしょうか。

経理報告義務はありますが、発表文献の末尾に高橋信三放送文化振興基金の助成を受けた、との表記があれば、いいようです。隙間を縫って、取材、執筆、出版社探しをしたいと思っています。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年11月22日 (日)

ボーナス交渉妥結

ヤマ場と設定した19日、年末のボーナス交渉が妥結しました。ボーナス交渉の厳しさは報道などでもご存じかと思いますが、我が社も、その例に漏れず。

妥結後、ある大阪勤務の局長からは「ヤマ場を越えるかと思った」と言われました。交渉の主戦場は東京であるのですが、その厳しさは大阪にも伝わっていたようです。

労働組合は委員長が社長、書記長が専務です。書記長は実務面のすべての責任を持ちます。運動の作戦参謀といった役割を果たすわけです。

マイナス額が史上最高とあり、かつてない運動を展開しましたが、最終的には金額がすべて。

組合員からは「これだけやったのだから、もっと上積みがあるかと思った」との声も聞かれ、収拾提案は2つの職場から不支持となりました。

レベルはまったく違うのですが、「不毛地帯」の主人公、壱岐正に思わず感情移入してしまいます。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月15日 (日)

一時金交渉、異変あり

組合執行部に入って、3年目。本部書記長2年目となった今回の年末一時金はもっとも厳しい経済闘争となっています。

リアルな「沈まぬ太陽」とでもいいましょうか。

委員長というのが最高責任者でありますが、書記長は実務的な職であり、会社とも組合員とも直接的な窓口を務めます。交渉全体のシナリオを描き、実行する作戦参謀みたいな仕事です。

今冬の一時金は各企業ともに厳しく、平均で15%程度のダウンが提示されているというのは報道がなされている通りです。

我が社の場合、ダウン額は18%相当のダウンにあたります。

夏に比べ、あまりにも下げ幅も大きく、組合員の生活設計の根幹を大きく揺るがす事態となっています。また、今回のダウン幅が続くのではないか、との不安も増大しています。

労使はここ十年、労使協調路線を執り、スト権確立をせず、交渉に入っていました。しかし、第一次回答後の集会では、組合員から「スト権を立てるべきだ」「執行部が弱腰だからではないか」といった批判もいただきました。こうした発言は真摯に受け止めますが、精神的には結構きついですね。

ストは労働者の権利ではありますが、実施された場合、労使関係が崩れるだけではなく、労使双方に経済的にも大きな影響が出ることから、実行には高度な判断が求められます。経済闘争は今回だけでありませんから、長期的な視野に立たなければいけません。

ただ、執行部に批判が向けられたのでは、闘うことができなくなります。今回はスト論議をいったん留保しながらも、違う手法で「闘う」ことを見せることにしました。

労務役員からは「ゼロ回答ではないから、経営責任うんぬんいうのはおかしい」など不適切な発言もあったことから、労務役員を徹底的に攻撃したのです。

これまでも対立局面がなかったわけではありませんが、ここまで、名指しで激しく攻撃したのは初めてといっていいでしょう。組合ニュースでも「許せない」とぶち上げ、通例にはない集会を開催し、労務サイドを攻め、就業時間前には会社役員に向けてビラ配りも敢行。執行部に向けられた怒りをすべて会社側に変換させることにしたわけです。

労務役員への攻撃は一度ならず、第二波、三波とやり続けました。その結果、第二次回答では役員が発言を謝罪し、撤回するまでに至りました。これも、組合員が声を上げて、行動を起こしたからこそです。一人一人の力は小さくとも、全体が声を少しずつ上げることで、会社を動かすことができる。

9月、新執行部になってから、いくつかの改革を行いました。ITを可能な限り、駆使して、会社よりも先駆的な集団であることをアピールすることを心がけました。

キーワードは「情報の公開」と「参加」です。

具体策は以下の通りです。

組合ニュースを読みやすく
ex)これまで文字だらけだったニュースをよりビジュアル的に。
執行役員の顔写真を入れ、「である」調から「です」「ます」調に。親しみやすく。

メールニュースの配信
外勤職場や遠隔地の職場にも関心を持ってもらう。

スカイプ(ネット電話)の導入
東西の支部を結び、連絡を密に。テレビ会議で経費節減。同時に、会社側に経費節減策を見せる

ビデオの導入
活動をビデオで撮影し、集会で組合員に向け、活動を可視化する。

これまでの組合活動は執行部任せの面が大きかったのは事実です。一組合員時代の僕自身もそうでした。たぶん、多くの企業の労働組合も同じ状況であったでしょう。平時であれば、それでもよかったかもしれません。

今は労働の危機。生活の危機です。

この大きな荒波を乗り切るためには、より大きな力が必要だと考えています。それには、関心を持っていただくことが大事です。密室で決めてしまったら、人任せにするのは当たり前です。

会社が何を考え、どんな発言をしたのか。それをあらゆる手段で見せれば、みんなが考える。無関心ではいられなくなる。個人個人が問題意識を持つことで、より強い行動がうまれる。最終的には会社の力になる。

組合執行部は組合員のために闘うのですが、それは会社のために、会社を愛するがゆえです。闘いは来週、最終局面を迎えます。ブログ更新は、しばらくお預けです。

そんなこんなのうちに、12日に一つ年を取ってしまいました。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月 5日 (木)

後輩の突然死

先日、大阪の後輩が亡くなり、神戸で営まれた通夜・告別式に参列しました。享年37歳。後輩には妻と10歳、7歳の子供がいましたが、7歳の子供は式の間、声をあげて、泣きじゃくっていましたのが目に焼き付いています。

これまで何度か通夜・告別式に参列しましたが、これだけ悲しかった通夜・告別式はなかったなぁ。

後輩は前日、普通に帰宅。翌朝、なかなか起きてこないので、おかしいと思った奥さんが彼の書斎兼寝室に行くと、すでに冷たくなっていたそうです。

司法解剖の結果、心臓の動脈に血栓が見つかったのだそうです。健康診断でも異常はなく、勤務はさほど激務だったわけでもない。いわゆる突然死。

前の晩に夫婦が最後に交わした言葉。

「そろそろ寝るよ」
「分かった。おやすみ」
「おやすみ」

ごく普通の会話でした。翌日は、ごく普通の朝がくるはずでした。しかし、後輩には朝はこなかった。

まさか本人も、これがこの世の別れの言葉になるとは思わなかったでしょう。人はどこで死ぬ可能性があるかなんて分からない。

人間、悪態をつくこともある。それが最後の言葉になってしまうこともあるわけです。そう考えると、言葉は大事なんですね。

彼を偲んで催された仲間内の会では、こんな話も出ました。

「余命が分かっていたら、子供も伝えられる言葉もあっただろう。後輩もそれが心残りだろうな」と。

そうかもしれません。でも、彼は生きているうちに、子供たちにきちんと伝えたのだと思います。だから、2人は泣いていた。

余命なんて、誰にも分からない。だから、人間は一日一日を大事に生きなければ、いけないんですね。

後輩はそんなことを僕らに残してくれたのだと思います。

産業医によれば、突然死は18歳以上の成人には誰でも起こる可能性があるそうです。特に就寝中は危険性があるとか。対処法としては、寝る前に一杯の水を飲むこと。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

検見川送信所、千葉市長が保存を明言

熊谷俊人千葉市長が10月30日午前、初めて検見川送信所の内部を視察し、同建物の保存を明言しました。

詳しくは「検見川送信所を知る会」HPにて。

この視察は市内外の人々による市民グループ「検見川送信所を知る会」が今年8月、熊谷市長を訪れ、保存に向けた早期調査を要望した際、会のメンバーが「市長自身の目で内部をみていただきたい」と依頼したことを受け、実施されました。

送信者 千葉市長、内部見学会

まだ道は半ばですが、保存に向け、大きく前進しました。

中心になったのは、「知る会」のメンバーではありましたが、地元の方々の協力、知る会会主催のイベントに参加してくださった市議のみなさん、各媒体で報じてくださったマスメディアのみなさん、日本建築家協会、ドコモモジャパンの方々、送信所職員のOBの方々、千葉市教育委員会生涯学習部、区画整理事務所の力だと思います。

40代の大人(一応)があえて青臭いことを言わせてもらいますが、どんなに困難なことでも、みんなで力を合わせれば、世の中を変えられる。

これは僕の決意というか、信念といってもいい。何も一人がめいいっぱい努力することはない。一人一人が自分のできる範囲で努力をすればいい。

ちょっとした努力が全体の大きな力になる。

また、「そんなことはできない」と、あきらめた瞬間、夢は夢のまま終わるのです。

僕が送信所と出会ったのは07年7月のことでした。

2007年7月12日 (木)
●廃墟・遺構を行く〜検見川送信所2007夏

夏草が生い茂る空き地の真ん中に、建物はボロボロになりながらも、力強く建っていました。その造形に目を奪われながらも、最初に思ったのは「もったいない」ということと、「なぜ、この建物は30年近くも廃墟であり続けたのか」という素朴な疑問でした。

送信者 千葉市長、内部見学会

調べれば、設計者はモダニズム建築の有名な建築家、吉田鉄郎氏であり、さらには日本初の国際放送も成し遂げている。内実ともに立派な建物なのですが、90年代には建物は不良のたまり場になって、治安上危ない、とか、古くなった建物は気味が悪いとか、悪評が飛び交うようになっていたそうです。

あまりに、あまりではないですか。

悪評の原因はひとつです。それは「建物の価値を知らないこと」あるいは「知ろうともしないこと」。人々の無知、無関心がよってたかって、建物を「廃墟」にしてしまったのです。

しかし、原因が人々の無知、無関心であるならば、逆も可能なはずです。人々の関心を呼び起こせばいいだけの話です。みんなに、この建物を知ってもらおう。そうやって、この活動はスタートしました。

「建物を守る会」とせず、「知る会」としたのも、そういう意味です。知ってもらえれば、その先は「守るべきか」「壊すべきか」は議論の余地がない。

もちろん、「そんなにうまくはいかないよ」との声もいただきました。「廃墟を文化財に」というキャッチフレーズでイベントを開催したところ、「廃墟を強調されたら、困る」といったおしかりの声もいただきました。

ご意見も理解できないことはありませんが、「こんな大事な建物が廃墟になっているのがおかしい」と言っているのです。

僕はある集まりで、こう申し上げたことがあります。

「送信所の今ある廃墟状態は千葉市そのものの姿であり、人々の無関心さを表す鏡である」と。

熊谷市長は財政の正常化を訴え、奔走しています。まだ知らない人もいるかもしれませんが、千葉市は公債比率(つまり借金の割合)が約25%と高く、現状のままなら、第二の夕張の道を進むとも言われました。

この事態を招いたのは費用対効果、市民の生活を無視した大型公共事業の推進が大きな原因です。

これらは前市長時代の「負の遺産」ではあるわけですが、そうした体制を許してきたのは市民自身であったわけです。

「政治家が悪い」とか「市が悪い」と一方的には、けっしていえないはずなのです。責任は市民の側にもある。

検見川送信所は廃墟になるべくして、廃墟になったのです。

送信者 千葉市長、内部見学会

送信所の再生は千葉市の再生でもあり、新生・千葉市のシンボリックな存在になるでしょう。

これからは千葉市や政治家にお願いしたり、任せっきりにするのではなく、市民の側が働きかけていかなければいけない。

「何か施設を作ってほしい」とお願いするのではなく、「どうやって施設を作っていくのか」を提案し、ともに作り上げていく。そういった考え方が必要なのではないでしょうか。

今後、調査が行われ、保存に向け本格的な議論が起こるかと思いますが、大きな壁となって立ちはだかるのは、お金の問題です。ただ、そこは必ず解決できると思っています。

既に30日夜の千葉テレビのニュース、31日付の読売新聞、朝日新聞、東京新聞、産経新聞、千葉日報でトップ級で報じられ、同会メンバーのブログ、千葉市長のブログでも報告されていますので、ご覧ください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »