« 検見川小学校でモールス信号発信教室 | トップページ | 「検見川送信所J1AA 1923-1999 何を伝え、なぜ廃墟になったのか」参考文献 »

2010年10月 3日 (日)

ノンフィクション小説「検見川送信所」はじめに

三年前から、検見川送信所をめぐるノンフィクション小説を書いています。目下、400字詰めの原稿用紙で400枚を越えているのだけど、恥ずかしながら、いまだ完成のメドが立っていない。書いては書き足し、書いては書き直しというわけです。

あまりに完成しないので、途中経過として、以下、「はじめに」を掲載します。少し内容と意図が分かってもらえるかも。

はじめに~さまよえる軍服の幽霊の正体は

千葉市花見川区に検見川無線送信所という建物がある。

送信者 検見川送信所(Kemigawa Radio Station)

この物語は、その送信所との出会いがきっかけで生まれた。
 二〇〇七年七月。私はロードバイクを買ったばかりで、自宅周辺をサイクリングすることを楽しんでいた。早朝や週末、デジカメをバッグに詰め込んで、千葉市内を走った。

千葉市に住んで三〇年以上になるが、知らない場所がいっぱいあった。
千葉市は第二次大戦時に二度の大規模空襲を受け、歴史的名所もほとんどない。そう思っていた。
そんな折、インターネットのあるホームページで検見川送信所の存在を知った。
なんでも、日本初の国際放送を行なった施設ということだったが、一九七九年に閉局され、以降は廃墟状態となっているという。跡地は中学校予定地ということもあり、近く取り壊される予定という話だった。
これはいかなければ、なるまい。

しかし、送信所近くまで行って、住宅地で道に迷ってしまった。
たまたま道に出ていた老女に場所を聞くと、「送信所はもうありませんよ」と言った。
そうか、間に合わなかったか。

以前にも、こういうことがあった。
稲毛区には江戸後期の豪農屋敷の面影を伝える立派な長屋門があった。この豪農屋敷は通りに面した門だけではなく、母屋、竈屋も残っており、千葉市の散歩道を紹介する小冊子にも紹介されている。しかし、ある時、通りかかると、すっかり門がなくなっていた。建物は突然、跡形もなく、なくなってしまう。
この長屋門は個人所有の物件である。いろいろな事情があったのかもしれない。しかし、数少ない歴史的な建造物が姿を消してしまうのは、なんともいえない思いだった。

さて、検見川送信所である。
老女は「検見川送信所はもうない」といったが、せめて跡地を訪ねてみようと思った。閉局後には職員OBが寄付を募り、記念碑を建てたという話もある。
再び、通りを歩いている初老の男性に訊ねると、通りの反対側に廃墟となった建物が残っている、という。
さっきの老女の言葉はなんだったのだろうか?
私の聞き方が悪かったのだろうか。検見川送信所は操業を終えたという意味だったのか、それとも、検見川送信所はないものに等しいものだったのか。それは今となっては分からない。
ともかく、送信所は造成中の新興住宅地の真ん中、夏草が生い茂る空き地に建っていた。その正面には同じく朽ち果てた記念碑が建っているだけだ。

白亜の局舎と言われた建物は経年劣化で、薄汚れ、壁面の一部は剥がれ落ちていた。しかし、その姿たるや、堂々たるものだ。
一体、なんだ、これは。
これが初対面の印象であった。
岡本太郎は「『一体、なんだこれは』と思う物が芸術なのだ」と言った。確かに大阪万博(一九七〇年)のシンボルタワーである岡本の代表作「太陽の塔」はまさにそうした存在である。万博公園の入り口近くの広場に、万博終了後、四〇年を経過した今も威風堂々建っている。万博も終わり、岡本も死んだ。しかし、「太陽の塔」はそこに立ち続け、地上六五メートルから世の中を睥睨している。

送信者 太陽の塔(岡本太郎)

送信所の局舎にも同質の驚きがある。建物の佇まいに、ただただ圧倒された。
夏草が人間の背の高さまで生い茂る空き地はまるで、「荒野」のようだ。その土地は時代の一切から取り残されたようで、その真ん中で建物が寂しく、しかし、しっかりと地面にそびえている。
 送信所は一九七九年、その役目を終えて、閉局した。この三〇年間は誰の手を一切借りず、自身の力で建っていた。

 私はその後、図書館やインターネットで検見川送信所について調べてみた。
それは誇るべき文化遺産だった。設計は東京中央郵便局、大阪中央郵便局を手がけたモダニズム建築の先駆者、吉田鉄郎。一九三〇年(昭和五年)には日本初の国際放送を行った。

しかし、実際に有名なのは不名誉な話の方だ。
インターネットでは、有名な廃墟スポットとして載っている。検見川在住の市民からは「幽霊屋敷」という言葉も出てくる。また、小中学生のころ、夏休みに忍び込んで、肝試しをした、というもある。軍服を着た幽霊が送信所の廊下を歩くという都市伝説も流布されている。
圧倒的な存在感ゆえに、幽霊話が持ち上がるのは分からないでもない。幽霊を見た人は実際にいるのだろうか?

確かに、ネットで検索すると、「送信所は軍服に身を包んだ、さまよえる幽霊を見たと言う証言が後を絶たない場所」とある。
体験談として、こんな話も載っている。要約してみる。

怪談話をしながら、蝋燭を消すという肝試しをしていた時のこと。やがて、友人二人と実際に送信所に出かけてみようと盛り上がったのだという。普段は車の運転に定評のある友人は赤信号を無視するなど最初からおかしなことが起こった。それは、死者からの招きのようでもあった。
道案内をした地元在住の友人も見知らぬ土地のように、地理感覚を失いながらも、送信所にたどり着いた。そこで突然、靄のようなモノが行く手を阻むかのように現れた。小学校時代にも霊体験をしたことがある、寄稿者は真っ先にそれを見た。しかし、送信所を抜けると、靄は晴れ、また近づくと、現れたという。そのため、建物を見ることさえできなかった、という。友人の一人も金縛りに遭った…。

「さまよえる軍服の幽霊」は送信所が「ニイタカヤマノボレ」を発信した施設という話と結びついているように思える。

ネット上で「送信所はニイタカヤマノボレを発信した地」という記事が複数存在する。廃墟について綴った本にも「太平洋戦争直前には、軍用無線基地として転用され、真珠湾攻撃の暗号文『ニイタカヤマノボレ』『トラトラトラ』が送受信された等の逸話も残っている」とある。
ニイタカヤマは漢字で「新高山」と書く。当時、日本領だった標高三九五二メートルの台湾の玉山のことで、占領下の日本では富士山を抜いて最高峰だった。
そのニイタカヤマノボレに登れということは軍の野心のようなものだったのかもしれない。
この暗号は長く続く戦争の始まりを告げる日本で最も有名な暗号である。

しかし、検見川送信所がニイタカヤマノボレを発信した事実はない。
長崎新聞のホームページには、当時の通信記録を調べた防衛庁防衛研究所調査員の菊田愼典さんの話が載っている。
「暗号文は開戦六日前の四一年十二月二日、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電。広島県の呉通信隊から針尾など国内三つの送信所に分かれて海外に送られた。このうち針尾送信所は中国大陸や南太平洋の部隊に伝え、真珠湾を攻撃する機動部隊が受信したのは千葉県の船橋送信所を経由した電波だった―」(長崎新聞二〇〇五年四月十九日)

国内3つの送信所というのは針尾無線塔のほか、船橋送信所(千葉県船橋市行田)、依佐美無線塔(愛知県刈谷市)を指す。おそらく、海軍行田送信所の史実がどういうわけか、検見川送信所に摺りかえられてしまった。
検見川送信所は戦時中、台湾、中国、パラオ、マカオなど植民地との通信を行っていた。具体的にどのように軍事利用されたかは資料が残っていないが、「検見川無線史」には一九四五年八月十五日の様子が書かれた一文がある。そこには、各通信回線が休止となり、記録書類を焼却したとある。
この焼却こそが軍事に関わっていた証拠と言えなくもない。戦時中は軍が駐留した事実はあるが、基本的には逓信省の職員が働いていたのである。送信所と軍服の幽霊はまったく根拠がない。「口裂け女」や「トイレの花子さん」同様、都市伝説のひとつにすぎない。 

しかし、こうした事例は歴史を見れば、よくある話にすぎない。
一九二三年九月(大正十二年)の関東大震災では、朝鮮人が暴動を起こしたという流言があっという間に広まり、朝鮮人だけではなく、多くの日本人も犠牲になった。
一九七三年には女子生徒が何気なく話していたことがきっかけで、豊川信用金庫から二〇億円の預金が引き出されるという騒動が起こった。同じく、オイルショックの時に、トイレットペーパーが品切れになるというパニックも間違った情報がきっかけで起こっている。

しかし、情報が高度化すれば、こうしたデマもなくなるわけではない。ツイッターでも、首相や有名人の偽者が登場したり、某有名キャスターがサッカーW杯のゲームでPKに失敗した選手の母親に対して、心ない質問をしたという偽情報が一気に広まったりしている。
それにしても、情報を発信し続けた送信所がデマ情報に躍らされているというのは皮肉なものだ。

建築的にも、通信史的にも重要な検見川送信所はなぜ、こんな扱いを受けているのだろうか? 
それは兎にも角にも、送信所がどんな建物であったのか、知らない人が多いのではないだろうか。この建物に足りないのは、まさにそうした「情報」であり、「物語」ではないのか。土地や建物にはそれぞれの物語がある。人間はそうした物語性を大事に生きているのだ。

この物語を伝える手段として、ノンフィクションではなく、「ノンフィクション小説」を選んだ。事実を並べるのではなく、娯楽性に富んだ小説の方が、より多くの人に読んでいただけるだろうと思ったからだ。
「関東大震災篇」では送信所がいかなる背景で誕生したか、「ツェッペリン号篇」では昭和四年のドイツの飛行船ツェッペリン号との交信、物語のクライマックスというべき「国際放送篇」では昭和の男たちが、使命感に燃え、世界から「できるわけがない」と言われた難事業をたった一六日間で成功させる姿を描く。「戦中篇」を経て、「閉局篇」では、労働者が自分たちの職場を守ろうとする姿を一人のリーダーの姿を通じて、紹介する。「閉局篇」では、送信所がどうして今日のような廃墟となったのかが見えてくるはずだ。

一九七九年の閉局後、NTTと千葉市が土地の等価交換を行った。千葉市は都市計画の中で、中学校用地と決め、建物を取り壊すことにした。しかし、なぜ、それがここまで放置されるに至ったのか? 閉局をめぐっては公社側と労働者側の対立を生んだ。しかし、記念碑を建てたのは公社側にいた職員の寄付によるものだった。この閉局後から一九九九年までを描く最終章「失われた二〇年」では小説の形式は取らず、唯一ルポルタージュとした。

また、無線、放送、建築に関わった人間に留まらず、昭和初期の新聞記者の考え、生き様がどのようなものであったのかも明らかにしていきたい。多くの部分は事実に基づいているが、一部フィクションも含む。取材にあたっては「高橋信三記念文化基金」の助成を受けている。

二〇一〇年現在、検見川送信所は保存に向けた調査を行なわれようとしている。これについては「あとがき」で触れたい。

|

« 検見川小学校でモールス信号発信教室 | トップページ | 「検見川送信所J1AA 1923-1999 何を伝え、なぜ廃墟になったのか」参考文献 »

検見川送信所」カテゴリの記事

コメント

ご無沙汰です。随分と大作をお書きになっておられたのですね。

>ノンフィクションではなく、「ノンフィクション小説」

事実に基づきつつも、ストーリー性を持たせた方が、読む側としては楽しめますしね♪最近は少量でも自費出版できるサービスもあるようですので、カタチにもされるんでしょうか?

楽しみにしております。

投稿: しぇるぽ | 2010年10月 5日 (火) 12時32分

>しぇるぽさん

現在、777枚。まだ書き続けています。発表は自費出版の形では考えていません。とりあえず、完成させてからでしょうか。

投稿: kuzumik | 2010年12月11日 (土) 13時07分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/153718/49634736

この記事へのトラックバック一覧です: ノンフィクション小説「検見川送信所」はじめに:

« 検見川小学校でモールス信号発信教室 | トップページ | 「検見川送信所J1AA 1923-1999 何を伝え、なぜ廃墟になったのか」参考文献 »