2010年4月18日 (日)

ライトオンした「太陽の塔」と「光の教会」を見に行く 大阪万博から40年。「進歩と調和」を考える?

3か月に1回ペースで大阪に出張に行くのだけど、大抵は東京にとんぼ返りになってしまう。今回、時間があったので、延泊して、プライベートに当てることにした。

そうだ、「太陽の塔」を見に行こう。

以前から興味があった。「太陽の塔」は言わずと知れた岡本太郎の代表作で、1970年の大阪万博のシンボル的な存在である。

万博のテーマは「進歩と調和」。しかし、その意図は岡本の反逆であったことは以下のエントリーでも触れている。

2010年2月 9日 (火)
「岡本太郎 『太陽の塔』と最後の闘い」(平野暁臣)★★★★

岡本太郎は太陽の塔製作について、こんなことを言っている。

「EXPO'70=進歩と調和だというわけで、テクノロジーを駆使してピカピカチャカチャカ。モダニズムが会場にあふれていることは目に見えている。それに対して、ガツーンとまったく反対のもの、太古の昔から、どんとそこにはえていたんじゃないか、と思われるような、そして、周囲とまったく調和しない、そういうものを突きつける必要があったんだ」

岡本は進歩と調和というが、人類はちっとも進歩なんかしてしてないし、調和だってなされていない。相変わらず世界中では戦争だって、起こっているじゃないか、と思ったようだ。

その進歩の象徴のひとつである、大阪モノレール「万博記念公園駅」で降りると、太陽の塔が見えた。ハンパなく大きな塔だ。近づけば、近づくほど大きさを実感する。

岡本の反逆を表現するには、ちょっとぐらい大きいだけではダメだったようだ。ベラボーな大きさのプリミティブな像が欲しかったのだろう。コミック「20世紀少年」では、この太陽の塔が動いて、町を破壊するシーンが出てくる。地面にどっしりと立っているが、今にも動き出しそうなポーズを取っている。

送信者 太陽の塔

カメラはGR DIGITAL II。今回撮影した「太陽の塔」の写真はこちら

真ん中にある顔は口を尖らせて、なんか拗ねたような、というか、しょぼくれたような表情だ。大屋根広場を突き破って、こんな顔が下を向いていたのかと思うと、ものすごい皮肉じゃないか。岡本太郎はすごいブラックジョークを真剣にやり遂げたのだ。

今年は大阪万博40年にあたる。3月27日には一番上の黄金の顔の目にライトが入れられたことが話題になった。万博中は運輸省から特別な許可を得て、強い光を放つクセノン投光器がついていた。写真を見ると、光の筋がつくほどの強力なものだ。

終了後には消されたわけだが、近くには伊丹空港があり、管制塔の光と間違われる可能性があったからだという。万博中はそんなアクシデントもなかったわけだから、間違う可能性はほとんどないじゃないか、とも思うが、「空の安全のため」と言われれば、仕方ないのかもしれない。

今回ライトがつけられたのは40周年ということもあるが、LEDによって、環境に負荷をかけずに、管制塔のライトとは別質の弱い光を出せるようになったことが大きいようだ。LEDにおいては「進歩と調和」が実現されたということだろうか。塔全体のライトアップにあわせて、目のライトも午後11時まで点灯されるという。

大阪万博のことを知りたかったら、公園内にある「EXPO'70パビリオン」を見に行けば、よい。ここは元々、前川國男設計した「鉄鋼館」である。

送信者 EXPO'70パビリオン

万博の記録映像の上映と記念品が展示されている。映像を見る限り、周囲は未開発の土地で、そこを造成して、無数のパビリオンが建てられた。そして、そのほとんどがわずか半年のうちに解体された。1970年が大量消費社会であったことを体現している。

跡地はその後、再開発計画によって、公園とされ、自生する森を目指して、植樹が行われた。公園内には芝生があり、各種の植物が植えられ、その意図通りに森として再生しつつある、という。これは21世紀的な考え方で、巨大な実験場とも言えるのだろう。

午後は「国立民族学博物館」を訪ねた。ここは万博終了後の跡地利用計画の中で生まれた建物で、万博の開催の際に蒐集された世界中の生活用品、仮面、宗教の像、楽器などを展示されている。万博の常設展みたいなものか。希望すれば、ガイド機器も無料レンタルしてくれる。ガイド機器はPS2を利用したもので、展示番号と合わせて、音声、映像、研究員による解説が聴ける仕組み。こんな利用法もあるんだ、と感心した。

博物館はちょうど音楽展示と言語展示が新しくなったばかりで、週末には講演など各種イベントも開催されている。本気で見ると、ゆうに1日は費やせるだろう。僕は休憩などを含めて、3時間半くらいいたらしい。日本庭園には行く時間がなかった。

次に目指したのは安藤忠雄設計の「光の教会」だ。吹田市といえば、茨木市は隣ではないか、と思い出したわけである。iPhoneで検索すると、最寄り駅「阪大病院前」から徒歩で行けると分かった。

ホームページによれば、2010年4月から牧師館の工事が始まり、見学は制限されているらしい。ここは安藤忠雄の代表作ともされているし、本などでも紹介されているから、「見学したい」という人が後を絶たないのだろう。それでも、外観くらいは見られるだろうというハラだ。

大阪モノレール「阪大病院前」から歩いて約10分、「光の教会」はあった。閑静な住宅地にある、とは聞いていたが、想像以上に静かな町だった。

電柱広告に「茨木春日丘教会」とあるくらいで、「安藤忠雄設計の有名建築はこちら」といった雰囲気ではない。実際、建物も安藤の特徴的なコンクリート建築ではあるが、一見、箱みたいな建物で、周囲は緑に覆われている。その特徴である礼拝堂の「十字の窓」も外からは非常にさり気ない。

入り口には「見学者の方々へ 本日は教会内行事のため一般の方々の見学はご遠慮いただいています。次回お越しの際には、事前に電話連絡をお願いします」というお知らせが出ていた。

教会では礼拝が行われる日曜午後などに見学を受けつけているが、その他の日は事前連絡が必要とのことだ。内部見学は叶わなかったが、「低コスト、周囲との調和」という安藤忠雄の意図は感じることができた。

送信者 光の教会(安藤忠雄)

「光の教会」については過去エントリーを読んでいただきたい。今回撮影した外観の写真はこちら

2009年4月12日 (日)
「光の教会―安藤忠雄の現場」(平松剛)★★★★

ちょうど夕刻になるとしていたので、どうせなら太陽の塔のライトオンを見に行こうと思った。万博公園桜まつりの期間中(3/27~4/11)までは午後9時まで開園だったが、今はなかには入れないので、正面ゲートから見るしかない。

午後6時すぎ、日没。日が落ちる時間帯はマジックアワーと呼ばれる。地平線に太陽が沈んでも、うっすら光が残り、空の一部が赤や青に染まる。1日のうちで最も光の変化が激しく、美しいと呼ばれる時間帯である。

太陽の塔は午後6時すぎ、ライトアップされ、黄金の顔の両目から光が放たれた。昼間は中央にある第2の顔に目が行くが、光が出ると、今度は黄金の顔に視線が移る。もう一つの顔が突然、現れたようだ。

送信者 太陽の塔

これも岡本太郎の意図であろう、光を得た目は遠くを見透かしているようにも見える。ウルトラマンを迎え撃つ怪獣のようとも表現される人もいたが、なんか「エレキング」にも似ているよね。

存在感は抜群で、調和なんか無視した原始的な形状の異物である。僕は日が完全に落ちるまでの間、この怪物に睨まれて、動けなかったのである。

太陽の塔絡みでは、挙式プラン「太陽の塔Wedding」(9/19、9/20)というのもがある。太陽の塔の前で挙げる世界に一つだけの挙式だそうだ。なかなかぶっ飛んだ企画じゃないか?

今回の旅の道中は以下で見ることができる。

万博記念公園~光の教会


Map your trip with EveryTrail

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2009年9月 9日 (水)

「虫庭の宿」(野口智弘)★★★★ 由布院のブランド力

「虫庭の宿」は、由布院の町づくりに奔走された旅館「由布院玉の湯」会長の溝口薫平さんの話を、西日本新聞記者の野口智弘さんが聞き書きしたもの。2008年9月11日から09年1月26日まで西日本新聞に連載されていたそうです。

虫庭の宿楽天

40年前は別府の奥の寒村であった由布院が人気の観光地になるまでが書かれています。実話のサクセスストーリーだけに胸躍るものがあります。

日本全国には温泉地はあまたあるのに、なぜ由布院が成功したか? 

それはリーダーとなった溝口薫平さん、亀の井別荘の中谷健太郎さん、志手康二さんという3人のアイデアと実行力にあります。そして、その根底にあるのはしっかりとした思想があったからだと分かります。

題名の「虫庭」とは、玉の湯にある雑木林の庭のことです。この庭のヒントを与えたのは文芸評論家の小林秀雄でした。小林は73年に宿泊しました。当時、玉の湯はフロントまで車で乗り付けるスタイルだったそうですが、74年から2年間かけて大改装をしたそうです。

その際、小林は「道を狭くして、車が入れないようにしたらいい。周囲はコンクリートの塀ではなく、草花や樹木を植えたらいい」とアドバイスをしたそうです。亡くなるまで年に1、2回やってきたそうですが、小林は由布院のことは最後まで文章にしませんでした。

小林の親戚で、NHKドラマでも有名になった白洲次郎の妻、白洲正子は「玉の湯につれてって」とせがんだそうですが、小林は断ったそうです。その理由は正子はすぐに原稿に書くので、静けさが失われるから、というものでした。

今の由布院の通りはオンシーズンになると、人であふれますが、少し中に入ると、里山の風景があり、ほっとする空間になっています。

大分の温泉地というと、別府が有名なのですが、由布院では真逆のやりかたを選びました。

別府は男性天国の歓楽地でしたが、由布院は生活型観光地を目指したわけです。何度も開発計画は持ち上がりましたが、それには拒否し、由布院の魅力である自然を守り続けました。この結果、これが由布院のブランドとなりました。
一方、他の温泉地が歓楽地化して、行き詰まっているのはご存じの通りです。

2008年8月18日 (月)
湯婆婆が出そうな温泉建築~別府

送信者 由布院

由布院が大型開発に至らなかったのは、各旅館の懐事情も大きかったようです。しかし、貧しいからこそ結束し、知恵を出し合いました。

由布院の旅館組合の結束力と知恵の一例は前の記事でも紹介しましたが、もう一例紹介します。

駅前にある観光拠点「由布院観光総合事務所」は、旅館や観光業者が共同で出資したものだそうです。旅館は売り上げの1万分の6の賛助金を出しています。つまり、年間10億円を売り上げれば、年間賛助金は60万円。これは結構な負担になります。しかし、宣伝活動は一括して行われるわけですから、一つの旅館が過大な宣伝費をかけることもなくなり、値引き合戦にもならない。由布院のブランドが守られる仕組みになっています。

そもそも、ブランドとはなんでしょうか? ブランドはイコール「強み」です。しかし、その強みは実は弱みの裏返しでもあることが分かります。

寒村であったことは「弱み」ではありましたが、それは「自然豊かな静かな里山」という強みに、「貧乏な旅館」という弱みは「旅館業者の結束」という強みに変換しました。

小林が虫庭というアイデアを出したように、利便性を捨てることで、新たな価値観が生まれることもあります。玉の湯の庭は非常に魅力的です。

ここに、本当のブランドとはなんたるかの、大きなヒントがあるように思えます。

由布院再建の立役者である3人ですが、語り部の溝口さん、中谷さんはいわゆる「よそ者」です。そこにも、第二のヒントがあるように思えます。

彼らが土地の人間だったら、豊かな里山という「由布院ブランド」は生まれなかったかもしれません。土地の人間はやはり、開発を望みます。それは責めるわけではなく、仕方のないことだと思います。

溝口さんが由布院に住み、土地の人間になろうとしますが、故郷を聞かれて、うまく答えられなくなって恥ずかしくなったと書いています。また、「由布院です」といっても、分かってもらえないことも多かった、とか。そんな時は「別府のひと山裏側です」と答え、むなしさを覚えたそうです。

町作りの出発点については「子供たちが、この町に生まれて良かったと思うことができて、自信と誇りをもって暮らせる町にするには、まず何から始めたらいいか」をテーマにしたといいます。僕も、ここが「肝」ではないかなぁと思います。

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2009年9月 5日 (土)

「虫庭の宿」暴力追放に成功した由布院

千葉市・稲毛区のテナントビル建設をめぐる恐喝事件で、千葉市市議会議長の小梛輝信容疑者が逮捕されました。千葉市では4月に鶴岡啓一前市長が収賄事件で逮捕されたばかり。市長、議長の相次ぐ逮捕で、千葉市の名前は地に堕ちたと言わざるを得ません。

送信者 稲毛

もちろん、容疑段階ですから、事実ならばということになりますが、市議が暴力団の名前を出して、金品を脅し取ろうということはあってはならないことです。

市政の問題もさることながら、千葉=暴力の町みたいな印象も生まれてしまいました。小梛市議だけでなく、こんな市議を議長に推薦した自民党会派の市議たちには非常な怒りを感じています。推薦人の名前を開示してほしい。

さて、8月29日から2泊3日で映画祭開催中の大分・湯布院に行ってきました。その詳細は機会があったら、書こうと思いますが、事務局の方から手渡された1冊の本を紹介したい、と思います。

同書は由布院の町づくりに奔走された旅館「由布院玉の湯」会長の溝口薫平さんの話を、西日本新聞記者の野口智弘さんが聞き書きしたものです。当時、寒村だった由布院がいかにして、自然を守りながら、世界でも有数の温泉地として、その名を知らしめるようになったのかが書かれています。非常に示唆の多い本で、あちらこちらに付箋をはらせていただきました。

送信者 由布院

その詳細は後ほど触れることにして、由布院の人々がいかにして暴力を排除したか、という話がありましたので紹介させていただきます。

1970年の暮れ、まだ、旅館が閑古鳥が鳴いていたころの話だそうです。玉の湯近くの旅館の主人が、「建設業者の団体客が取れた」と喜んでいたそうです。溝口さんが「話がよすぎる」と思って、調べると、その客は暴力団。ちょうど1か月前に、組長の出所祝いを神戸で行ったばかりだったそうで、地元別府市でも派手な宴会を企画したのだそうです。

しかし、大分県警が動き、組側に通告。別府市内の旅館にも通達が行き渡っていたので、「奥別府」の由布院が目をつけられました。

旅館の主人はあわてて断りの電話を入れますが、「もう日数がない。断ると、どういうことになるかわかっとるだろうな」とすごまれてしまったそうです。

大分警察も動きますが、彼らが暴れない限り、取り締まりはできない。しかし、この暴力団の出所祝いが実現すると、暴力団御用達の町、というイメージがついてしまう。

旅館組合は大慌てです。
長い議論があったようです。彼らは町に繰り出すはずです。
「シャッターを閉めようか」
「それでは、暴力団に鎮圧されたことになってしまう」

そこで、亀の井の別荘の主人がアイデアを出します。

亀の井の別荘 湯の岳庵 由布院

「明日午後2時、全商店が暴力団の放免祝いに抗議してシャッターをおろします」と商店街に通告し、さらに、この「無言の抵抗」をメディアに取材してもらうことにしました。

大分県警には「われわれは暴力追放に立ち上がることを決議しました。ただ、未然の問題点のひとつとして警察力の不足が話題になりました。暴力追放などの相互連絡を密にするためには警察力の強化を早急に実現されるようお願いする」という内容の要望書を提出し、プレッシャーをかけたわけです。

さて、午後2時のチェックイン。黒塗りの車が続々と由布院に入ってきます。旅館の人々は向かいの旅館から監視。両手にポケットを突っ込んだ黒服の組員がにらんできたそうです。

午後2時、200ある由布院の商店街が一斉にシャッターをおろします。そうなると、彼らはどこにもいけません。カメラをむけられた組長は「撮るなら、撮れ。大きく載せろ」との捨て台詞を残して、全員が引き揚げていったそうです。

これって、すごくないですか?

これは団結の力、市民のひとりひとりの勇気ですね。

翌日の新聞には「湯の町は怒る」「商店、旅館200軒が休養」「勇気あるパントマイム」などとの大見出しで報じられたそうです。

当時の町長はこの日、出張で不在だったそうですが、すぐに「暴力追放宣言町」の決議案を議会に提出。二度と暴力団に足を運ばせないことを全国に宣言したのだそうです。

やっぱり、由布院はいいですね。すごい!!

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2009年8月12日 (水)

針尾無線塔を訪ねて〜iPhone Movie

針尾無線塔を間近で見るためにタクシーをチャーターしました。タクシー会社によると、ハウステンボスから針尾無線塔までは往復5000〜6000円といったところ。

18佐世保市針尾地区はひとつの島になっています。無線塔はいろんな場所から見ることができます。3本の塔は正三角形に配置されているそうです。

佐世保は軍港として有名ですが、1945年8月の敗戦後は、外地からの引揚港に指定されました。浦頭(うらがしら)がそれに当たります。昭和25年4月までに軍関係者、民間人合わせて約140万人が浦頭を経由して、故郷に帰っていきました。

タクシーの運転手は「古い桟橋が残っている」と言って、案内してくれたのですが、既に撤去されていました。ここに限らず、古いものはどんどん失われていきますね。

近くには、浦頭引揚記念公園と資料館があります。資料館の方に話を伺うと、引き揚げ元は満州が、帰郷先は長野県が最も多かったそうです。当時、政府は「満州は夢の土地」といった具合で宣伝していましたから、農村で苦しい生活をしていた方々が新天地を求めて、渡っていったわけです。

18資料館にあるジオラマをみると、その航路が分かります。佐世保の湾は相当入り組んでいるのですが、引揚者は3本の針尾無線塔を見て、故郷に帰ってきたという思いを強くしたことでしょう。

つまり、針尾無線塔は1941年12月に開戦を告げる「ニイタカヤマノボレ」の暗号を送るとともに、終戦、引揚のシンボルでもあったわけです。

ハウステンボスのシンボルタワー、ドムトールン展望台から臨む針尾無線塔の風景は「平和の窓」とも言われているそうです。ハウステンボス自体、引揚施設の跡地が利用されています。

18無線塔の中に入ることはできませんが、畑の中にあり、近くまで見ることができます。下から見上げる135メートルの塔は大迫力です。

周囲は草木が鬱蒼と茂っていて、ヤブ蚊の羽音がよく聞こえました。夏の見学はあまりよろしくないようです。残念なことに、塔の地上部分には無数の落書きがありました。

針尾のような戦争遺産は、一時、「負の遺産」と言われていました。そういった施設の多くは「戦争の象徴」の側面と同時に、「平和の象徴」といった顔も持っていることが多いように思えます。

検見川送信所も、どちらかというと、戦争遺産のように見られていた節もあります。しかし、1930年には軍縮を記念した日本初の国際放送も手がけている。「戦争と平和」は表裏一体にも思えます。原子力もそうでしょう。広島、長崎に落とされた原爆のような使われ方もあれば、原子力発電所のような平和利用もあります(原発の危険性の論議はおいておいて)。どんな施設であれ、それを引き起こすのは人間の知恵次第ということです。

浦頭の引揚施設はほとんど取り壊され、かわって、モニュメントが建てられています。今や、無線塔だけが当時の施設といってもいいでしょう。

3本のコンクリート製のアンテナ塔は僕らに何かを語りかけているようです。

以下は全編ほぼiPhoneで撮影したショートムービーです。約2分弱。

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2009年8月11日 (火)

ハウステンボスからみた針尾無線塔

18長崎市に入る前に、1日だけ私的な時間を作りました。そうして、佐世保市のハウステンボスに1泊したわけです。

7日は快晴。外にいるだけで汗をかくほどでした。

ハウステンボスは資金繰りにいろいろな問題を抱えているようですが、とにかく、広い。とにかく、豪華。よくぞ、ここまで作ったなぁと思います。これでは維持するのが大変でしょうね。

「ハウステンボス」とは「森の家」という意味で、オランダの国造りをヒントに、当時の建築などを現代に再現した一大リゾート施設です。入場料は3200円。このほか、アトラクションを楽しむためにはパスカード(2400円)が必要となります。

施設の中でひときわ目をひくのが「ドムトールン」と言われるシンボルタワー。施設内のどこからいても、みることができます。オランダ本国で一番高い教会鐘楼(112m)がモデルで、ハウステンボスのものは105m。オリジナルよりも低いのは、周囲との景観を考えた結果とか。

18高さ80mのところに、展望台があります。プライバシーの関係か、360度見渡せるわけではないのですが、施設のおおよそのところは見渡すことができます。僕が注目したのは、3本、天に突き刺すように建っている針尾無線塔です。

針尾無線塔は以前もこのブログで紹介しました。「検見川送信所を知る会」を作るきっかけになったのが、針尾での保存活動でした。

2007年8月12日 (日)
検見川送信所とニイタカヤマノボレ1208

2007年8月13日 (月)
佐世保市役所に聞く〜針尾無線塔、取り壊しから保存へ

2007年8月14日 (火)
針尾無線塔を守る会にノウハウを聞く〜検見川送信所

針尾無線塔を訪ねてみたい、という2年越しの夢がついに叶ったというわけです。

18針尾無線塔の高さは2本が135m、残りが137m。1922年に完成し、1941年12月の真珠湾攻撃を告げる暗号「ニイタカヤマノボレ」を送信した施設のひとつと言われています。戦後すぐは米軍に収用されていましたが、その後、自衛隊と海上保安庁が使用。97年に後継の送信施設が完成し、現在は役目を終えています。

長らく佐世保のシンボルとしてそびえたっていたのですが、取り壊しの話が持ち上がり、地元有志が「針尾無線塔を守る会」を結成し、保存を行政に訴えたのです。07年には竣工当時の未公開写真なども見つかったと聞いています。現存する大正期のコンクリート製アンテナとしては日本唯一。歴史的な意味も大きいとして、佐世保市では国の重要文化財としての道も模索しています。

最近は動きが聞かれませんが、どうしたのでしょうか?

ともかく、近くにいって、見てこよう。<続く>

写真は(1)iPhone、(2)がiPhone ToyCameraToyCamera
(3)がGRD2。最新機種はGRD3。

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2009年8月 9日 (日)

原爆の悲劇を伝えることに生涯を捧げた市民ジャーナリスト、伊藤明彦さんの思い

8月9日は64年目の「長崎原爆の日」。この長崎行きは平和フォーラムと「平和集会」の参加が目的です。

2008年8月 9日 (土)
長崎原爆の日、爆心地を歩く

 8日のフォーラムでは、市民ジャーナリストとして生涯を捧げ、今年3月に亡くなった伊藤明彦さんのドキュメンタリーが印象的でした。

 伊藤さんは8歳のときに入市被爆。60年に長崎放送に入社。原爆体験を伝えることは被爆地ジャーナリズムの社会的な責任として、68年に被爆者が体験を語るラジオ番組をスタート。しかし、半年で担当を外されると、退社。以後は、肉体労働をしながら、退職金で買った録音機をもって、全国各地を回って、被爆者の証言を録音されたそうです。結局、1003人の声が集まりますが、ここに至るまで、半数に断られたそうです。断った人は「思い出しても、つらい体験をわざわざ話したくない」ということでした。

落ち込むこともあったようですが、そんな時は伊藤さんは被爆者が数多く眠る長崎のカソリックの墓地を訪れ、死者の声に耳を傾けるのだそうです。すると、「声を残こすこともなく、亡くなった人々が励ましてくれる」と伊藤さんは言います。 

伊藤さんは1003人の声を編集するために、古巣の長崎放送局を訪ね、旧式の編集機を借りて、1か月以上、安いビジネスホテルで作業をされたそうです。伊藤さんは時間がもったいないからと言って、食事もせず没頭されたそうです。それが僕が泊まっているホテルであります。今、こうして、面識のない伊藤さんのことを書いていることと無関係ではありません。

それにしても、伊藤さんを突き動かしたものはなんだったのでしょう? 伊藤さんは結婚もせず、名誉も金も求めず、ただ、被爆者の声を集めることにだけ没頭しました。

 軍事ジャーナリストの前田哲男さんによれば、伊藤さんは「一生を棒に振って、人生に関与せよ」「つらぬけ やり通せ たった一つの生を得よ」という言葉を残されています。伊藤さんにとって、「録音構成ヒロシマ」と「録音構成ナガサキ」を残すことが生涯の仕事であったのです。

 オリジナルテープは「国立原水爆被災資料センター」に寄贈されたそうです。それは、後世、日本の「戦争と平和」や「風とともに去りぬ」を書く人のために、祖父の物語を残すのだ、という思いだったそうです。

伊藤さんはニュースインタビューとしてではなく、「録音構成用」として録音を行ったそうです。つまり、質問部分はほとんどなく、話に同意も否定もせず、被爆者が話を尽きるまで何も言わないというのが取材スタイルだったそうです。作家、村上春樹さんがノンフィクション「アンダーグラウンド」を書いたとき、こうしたスタイルを取っていたと記憶しています。

それらをテープやCDにして、全国の施設に寄贈されたそうです。その数は千枚単位で、全部自費。これには相当な費用がかかったと推察されます。伊藤さんの経済状況を考えると、相当な負担だったのではないでしょうか。

どの公共施設も、そうですが、予算が低く組まれていることから、寄贈を望まれます。もちろん、個人の寄贈は大事なことですが、それだけでよいのか、という感想もあります。

しかし、埼玉県立平和記念資料館には寄贈を断れたそうです。伊藤さんは手紙に寄贈したい旨とともに「CDを活用してほしい」と書き添えたそうですが、記念館では「集いをやる予定もなければ、CDプレーヤーもなければ、予算もない」と返事をしたそうです。

伊藤さんは平和記念資料館の返信に驚き、怒り、抗議をすると、数年前に寄贈したはずのテープも紛失していたという事実も分かります。結局、平和記念館は寄贈を受け入れるのですが、なんともコメントしようもない出来事ですね。

伊藤さんの活動はやがてメディアによって紹介され、その結果、協力者も現れます。長崎出身のコピーライターがCD作品を「被爆者の声」としてウェブ化し、ある女性教諭の方によって、英語版も製作されているそうです。たった1人の思いでも、活動を続ければ、必ず通じる。これは僕自身が行っている「検見川送信所を知る会」でも実感するところです。

怒られるかもしれませんが、僕はつい最近まで、平和運動に懐疑的でした。

すべての戦争に反対するのは、当たり前のことであり、運動を起こすようなものではない、と思っていたからです。しかも、平和運動というのは、成果が見えにくい。運動を行って、意味があるのだろうか?

しかし、それは間違っていました。

誰でも平和を愛し、戦争を憎みます。しかし、人類は戦争を繰り返す。平和が大事であると認識することと、平和を実践することは別物なのです。平和を訴えるには、悲惨な戦争体験を語り継いでいくしかないのです。

戦後64年を経て、戦争体験は風化しています。戦争の悲劇というと、広島、長崎の被爆、沖縄での本土決戦、東京大空襲といったものが印象的ですが、それだけではありません。

僕が暮らす千葉でも、2度の大規模空襲があり、多数の市民が亡くなっています。日本全土で空襲に遭っていない都市は10しかないそうです。

戦争というのは身近な問題です。

僕の親族も戦死したり、空襲で亡くなっている人もいます。その親族が違う人間であれば、僕は生まれていなかったかもしれません。その可能性は十分にあったでしょう。

先日、ノンフィクション小説「検見川無線のプロジェクトX」を書き上げ、目下、印刷に出しています。週明けには、手元に送られてくるはずです。

これは1930年10月、ロンドン海軍軍縮条約締結を記念した日米英による初の国際放送の舞台裏を描いたものです。この後、浜口雄幸首相は右翼青年に銃撃され、日本は再び軍事化を強めていきます。やがて、平和の声を伝えた検見川無線は戦争にも関与していきます。そう考えていくと、この国際放送はエポックメーキングな事件でもあり、日本のターニングポイントでもあるわけです。

この「検見川無線のプロジェクトX」はページ数の関係で、すべてを書ききっているわけではありませんが、在庫がなくなる度に、新事実を盛り込み、改稿を続けてきました。

今回の新装版はフォントのポイントを最小にして、全編改稿しました。文字数もかなり増えています。内容は「戦争反対」を声高しているわけではないつもりですが、読んでくださった方が感じてくだされば、幸いです。

伊藤さんは東京の施設で倒れた時、「まだやるべきことがある。死にたくない」と話されたそうです。平和を求める行動にゴールはありません。伊藤さん亡き後、僕たちができることは戦争の悲劇を語り継いでいくことでしょう。

熊谷市政となった千葉市は平和市長会議にも参加することになりました。「検見川無線のプロジェクトX」も平和都市、千葉の一助になれば、と思っています。

最後に、伊藤さんの文章を転載させていただきます。


伊藤明彦 ヒロ/ナガ.com 核兵器再使用とジャーナリスト

 ジャーナリストは、核兵器再使用に反対する、特別の職業的理由を持っています。核兵器が再度使用されたとき、彼または彼女は、ジャーナリズムの良心に従って、「ニュースの現場」に少しでも近づこうとする限り、残留放射能によって、死亡したり、一生続く後遺症を背負い込む可能性があることを、今は知っているからです。チェルノブイリでは、多くの消防士や記録映画製作者が、「現場」に近づきすぎたため、「職業的死」を遂げました。

 ヒロシマ・ナガサキの記者たちは、残留放射能についての知識がまったくなかったため、少しで「ニュースの現場」らしいところに近づこうと努力しました。これからはそうは行かないでしょう。
 もっとも苦しい選択を強いられるのは、だれを「現場」に送るかを、決めなければならない、
ジャーナリズムの現場幹部です。記者本人は死を覚悟しても「行きたい」と言うかも知れません
が、家族のことを思えば、つらい選択をしなければなりません。

 フリーのライターにこの話をしましたら、「真っ先に投入されるのはわれわれだろう。どうせわれわれは消耗品。死んでも金一封で゛済むのだから」と、渋い顔をしておりました。

 すべてのメディア所属のジャーナリストも、フリーの仲間たちも、反対いたしましょう、核兵器の再使用に。立ち上がりましょう、「反核世界ジャーナリスト会議」結成の呼びかけに。
                                              (伊藤明彦)                           ■08.2.28■



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2009年6月 3日 (水)

大阪市中央公会堂(1918年)

大阪へは、ある裁判の支援に行ったのですが、それはまた別の機会があれば。

大阪地裁の近く、中之島には近代建築が残っていると聞き、歩いてみました。

大阪市中央公会堂は1918年竣工。設計原案は岡田信一郎という人ですが、建築顧問は東京駅舎で知られる辰野金吾氏。

ウィキペディアによれば、「2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定されている。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった」とある。

お散歩カメラはやっぱり、コンデジのGRデジタル2。


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送信者 2009 06 02

スケッチをしているグループを見かけました。立ち止まって、眺める人やカメラを向ける人も多い。やっぱり、赤煉瓦建築は一般受けがいいんですね。

送信者 2009 06 02

近くには同じく辰野設計の日本銀行大阪支店があります。辰野設計の建築がいくつか集まってきたので、アルバムにまとめてみました。

辰野金吾


2008年9月 3日 (水)
復原される東京駅とレプリカ保存で高層化計画の東京中央郵便局


2007年8月29日 (水)
磯崎建築のスクラップ・アンド・ビルド@大分市

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2009年5月23日 (土)

モナコGP1994

モナコGPが始まりましたね。

車にはあまり興味がないのですが、F1だけは特別。モナコGPにも行ったことがあります。以前、モナコGPのことをチラリと書きましたが、時期不明と書きましたが、94年金曜日のフリー走行での様子です。帰りのニース空港で、フジテレビのゲスト出演者だった鈴木保奈美さんを見かけたので、ようやく思い出しました。今年のゲストは清原和博さんですね。アイルトン・セナはこの前のサンマリノGPで事故死し、既にいませんでした。

この年の決勝は以下の順位。

1 M.シューマッハ
2 M.ブランドル
3 G.ベルガー

以下の機器でスキャンしました。


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2009年3月 5日 (木)

国宝の猫(キヤノン30D 日光東照宮)

国宝の猫をご存知でしょうか?世界遺産「日光東照宮」の眠り猫です。

送信者 2009 03 01

先日、家族旅行で日光東照宮に寄りました。

この眠り猫は徳川家康の墓の入り口の門に飾られています。なんでも、平和の象徴なんだとか。暖かい日光に照らされて、猫もネコんでしまうくらい平和だニャン。と、ついつい、つまらない駄洒落も言いたくなってしまう。

その一方、「墓守りである猫は寝たふりをしているのだ」という反対の意見もあるから、面白い。寝姿はファイティングポーズそのまま。相手(ネズミ?)を油断させて、一網打尽にしようとしているという説もあるそうです。

こんな説も出るのは一重に彫刻の出来映えがよいから。今にも動き出そうな感じがありますね。

まあ、猫にはとっては、どっちでもいいニャン。ってことかもしれませんね。

東照宮は建物も見事なんですが、随所に動物の彫り物があって、面白い。有名なのは、「見ざる言わざる聞かざる」かな。

送信者 2009 03 01

他にも、への字の目でニタリと笑った象がいたり。

送信者 2009 03 01

さながら動物園です。これらの動物さんたちは全て平和を願って、作られたみたいだゾウ。

失礼しました。

カメラはキヤノンの30Dです。最新機種は50D。



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2009年3月 2日 (月)

湯西川温泉のかまくら祭(GR Digital2)

3月1~2日、両親と5歳下の弟で旅行に行ってきました。

弟が「おやじとお袋が足腰が元気なうちに、旅行しよう」と企画して、約20年ぶりの家族旅行が実現。日光東照宮に寄って、宿泊地の川治温泉にチェックイン。夕方、車で40分の湯西川温泉に足を伸ばしました。

写真は湯西川温泉で開催中のかまくら祭での一コマ。カメラを構えているのが父、手前にいるのが母。

送信者 2009 03 01
送信者 2009 03 01

「『かまくら』なんて、はじめて」と母。

ライトアップされた『かまくら』に感激していました。

今年は暖冬。地元の方によれば、こんなに雪が少ないのははじめてだそうで、ボランティアが雪をかき集めて作ったかまくらも、一部溶けて、穴が開いていました。

地球は温暖化していますね。なんとかしなくちゃ。

送信者 2009 03 01


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